底本
Platonis Opera, Tomus III: Tetralogia V-VII. Burnet, John, editor. Oxford: Clarendon Press, 1903.
原文データ出典
Perseus Digital Library · CC BY-SA (Perseus の利用条件による)
元ファイル: urn:cts:greekLit:tlg0059.tlg022.perseus-grc2
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翻訳と校閲
翻訳:Gemini 3.5 Flash(2026-05-22 公開)
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最終更新:2026-10-10・変更履歴の一覧
要旨
本作は、人間の「徳」(アレテー)が教育可能なものであるのか、そして徳の本質とは何かを追究するプラトンの対話篇です。ソクラテスは、アテナイを訪れた高名なソフィストであるプロタゴラスとカリアス邸で対峙し、知的な探求を繰り広げます。序盤、プロタゴラスは神話や社会のあり方を引き合いに出して徳は教えられると主張しますが、ソクラテスは政治家の息子たちの例などからこれに疑問を投げかけます。中盤では、正義や節制、勇気といった個々の徳が「知恵」(ソピアー)という一つのものに帰せられるか否かが議論の焦点となります。終盤、ソクラテスは「快楽に負ける」という現象が実は善悪を測定する知識の欠如(無知)によるものであることを論証し、すべての徳は知識であると結論づけます。最終的に、当初「徳は教育不可能」としたソクラテスが徳を知識(教育可能)と論じ、「徳は教育可能」としたプロタゴラスがそれを拒むという、奇妙な立場の逆転が明らかになり、議論は未完のまま将来へと持ち越されます。
目次
33 チャンク
引用方式:section
- §309-310
友人との対話とヒッポクラテスの訪問
ソクラテスが友人に、アルキビアデスよりも美しく知恵のあるプロタゴラスに会ったことを告げ、二人の対話が始まる。ソクラテスは、早朝に興奮状態で自宅を訪ねてきた若者ヒッポクラテスから、プロタゴラスの到着を報され、彼に紹介してほしいと頼まれた経緯を語り出す。
- §311-312
ソフィストへ弟子入りする目的の吟味
ソクラテスとヒッポクラテスはプロタゴラスを訪問することにし、道中でソクラテスはヒッポクラテスに、ソフィストに弟子入りする目的とソフィストの定義について問いかける。
- §313
魂をソフィストに委ねる危険性と知識の商人
ソクラテスはヒッポクラテスに対し、自らの魂をソフィストに委ねることの重大な危険性を警告し、身体の健康を委ねる場合と比較して彼がいかに無謀であるかを指摘する。さらに、ソフィストを「魂の滋養を売る商人」に例え、知識の良し悪しを見極める専門知識がない限り、安易に知識を購入すべきではないと諭す。
- §314-315
カリアス邸への到着とソフィストたちの姿
ソクラテスは知識の購入が食物の購入よりも魂に直接影響を及ぼすため危険であると説き、カリアス邸に到着してプロタゴラス、ヒッピアス、プロディコスといったソフィストたちとその追従者たちを目撃する。
- §316-317
ソフィスト術の公言とプロタゴラスへの入門相談
ソクラテスはヒッポクラテスのためプロタゴラスに弟子の受入れを交渉する。プロタゴラスはソフィスト術に対する世間の嫉妬と古代の偽装について論じ、自分は公言する道を選んだと主張して一同での対話を提案する。
- §318-319
政治の技術と徳が教えられるかどうかの疑念
ソクラテスはプロタゴラスに対し、ヒッポクラテスが彼の指導を受けることで具体的に何が身につくのかを問い、プロタゴラスはそれが家政や国政に活きる「思慮深さ(政治の技術)」であると答える。これに対しソクラテスは、アテナイの民主政における民会での振る舞いや、賢人の子供たちの例を引き合いに出して、政治的な徳(技術)は伝授不可能なものであるという疑念を提出する。
- §320-321
プロメテウスとエピメテウスの神話
ソクラテスは、ペリクレスが息子たちに政治の徳を授けられなかった例から徳の教育不可能性を論じ、これに対してプロタゴラスは、人間を含む生物の創造と能力配分に関するプロメテウスとエピメテウスの神話を語り始める。
- §322-323
ゼウスによる正義の付与と政治の徳の普遍性
プロタゴラスは、人間が技術の知恵を得たものの政治の徳を持たず滅びかけたため、ゼウスがすべての人に慎みと正義を配分したという神話を語る。そして、すべての人が政治の徳を分かち持っているからこそ、ポリスの審議では全員の発言が許され、またこの徳が努力や教育によって獲得されると考えられているからこそ、その欠如が非難されるのだと論じる。
- §324-325
処罰の目的と早期教育による徳の習得
プロタゴラスは、処罰が過去への報復ではなく未来の罪の予防を目的とするものであることを示し、それが徳の獲得可能性を人々が信じている証拠であると論じる。さらに、この共通の徳を子供たちに教え込ませるために、家庭や学校においていかに初期から熱心な道徳教育が行われているかを説き、ソクラテスの疑念に答える。
- §326-327
青少年の教育と法律による陶冶および徳の伝達
子供の成長期における詩、竪琴、体育の教育、および国家の法律による市民の訓練を説明し、優れた親の子供が凡庸になりうる理由をフルート奏者の社会や野蛮な社会との対比によって明らかにする。
- §328-329
大演説の終了と徳の一性と部分をめぐる問い
プロタゴラスは独自の報酬制度にも触れつつ徳の教授可能性についての演説を終え、ソクラテスはその弁舌を称賛しつつも、徳と、正義や節制、敬虔といった個々の徳の性質が、全体の「部分」なのか「名前」にすぎないのかという新たな疑問を提起する。
- §330
徳の諸部分の異質性と正義や敬虔の性質
ソクラテスは、徳の各部分が顔の器官のように異質な独自の機能を持つというプロタゴラスの合意を取り付けた後、「正義は正しいか」「敬虔は敬虔か」という自己述語的な質問を通じて彼の前提の矛盾を突き始める。
- §331
正義と敬虔の類似性をめぐる対立
ソクラテスは、正義と敬虔が相反するという不条理な結論を避けるため、両者が極めて似ているか同一であると主張するが、プロタゴラスは、いかなるものにも僅かな類似性はあるとして、安易に「似ている」と呼ぶことに反対する。
- §332-333
思慮深さと知恵の同一性と不正な者の思慮
ソクラテスは、「一つのものにはただ一つの反対のものしかない」という前提を用いて、思慮深さと知恵が同一であることをプロタゴラスに合意させ、続いて不正を行う者が思慮深くあり得るかという新たな議論に入ります。
- §334-335
善の多様性と問答形式をめぐる対立
プロタゴラスが「善」の相対性と多様性について長々と演説したのに対し、ソクラテスは物忘れが激しいことを理由に短い文答形式(短答法)による議論を求める。プロタゴラスがこれを拒んで独自の対話スタイルを主張すると、ソクラテスは立ち去ろうとし、それをカリアスが引き留める。
- §336-337
対話の維持をめぐる聴衆たちの仲裁
ソクラテスが走者の例えを用いてプロタゴラスに短い返答を求める中、カリアスとアルキビアデス、さらにクリティアス、プロディコス、ヒッピアスが仲裁に入り、それぞれの立場から議論の維持を提案する。
- §338-339
対話の再開とシモニデスの詩の吟味
ヒッピアスの調停案を退け、ソクラテスは双方が交互に問答を行う方法を提案して合意を得る。プロタゴラスが問い手を引き受け、シモニデスの詩を用いてソクラテスへの追及を開始する。
- §340-341
プロディコスの語義区分によるシモニデスの弁護
ソクラテスはプロディコスの「なる」と「ある」の区別を借りてシモニデスの詩に矛盾はないと擁護するが、プロタゴラスはこれに反論する。さらにソクラテスは、プロディコスの言葉の厳密な定義を引いて「困難」という言葉が独自の意味で使われた可能性を冗談混じりに提案しつつ、最終的には詩の真意を検討する。
- §342-343
スパルタの知恵とシモニデスの詩の意図
ソクラテスは、クレタとスパルタがギリシア最古にして最大の哲学の地であり、その知恵はラコニア的な短い言葉に特徴づけられると主張する。そして、シモニデスがピッタコスの名言「善い者であることは困難である」に対抗して詩を書いたのだと述べ、その冒頭の「 μέν 」と「 ἀληθῶς 」の修飾関係について詳細な構文分析を提示する。
- §344
ピッタコスの格言に対するシモニデスの反駁
ソクラテスはシモニデスの詩における語順の倒置を指摘し、詩全体がピッタコスの格言への論駁であることを論じる。人間は一時的に善い者になれても、不可抗力の不運によって悪くなりうるため、善い者であり続けることは不可能であるという詩の論理を解説する。
- §345-346
自発的な悪の不在と詩人による称賛の対象
ソクラテスはシモニデスの詩を分析し、人間は無知や不運によってのみ悪くなりうるが、そもそも常に善くあることは不可能であり、ただ中間の状態にあって自発的に悪を行わない者を詩人は称賛しているのだと解釈する。
- §347-348
詩の解釈の終了と直接の対話の再開
ソクラテスはシモニデスの詩に関する解釈を締めくくり、詩人の意図という検証不可能な議論をやめて直接対話に戻ることを提案する。周囲の促しもあってプロタゴラスは渋々これを受け入れ、ホメロスの言葉を引くソクラテスとの共同探求が再開される。
- §349-350
勇気と知恵の関係をめぐる議論とプロタゴラスの反論
ソクラテスはプロタゴラスに対して徳の諸部分の統一性について再び問いを提起し、プロタゴラスは「勇気」のみが他の徳と全く異なると主張する。ソクラテスは「大胆さ」と「知識」を結びつけて勇気と知恵を同一視しようとするが、プロタゴラスは命題の逆転を不当に行っているとしてその論理を鋭く批判する。
- §351
大胆さと勇気の区別と快楽と善をめぐる問い
プロタゴラスは強さと能力、大胆さと勇気を区別して自説の正当性を主張する。その後、ソクラテスは快楽と善が同一であるかという新たな問いを提起し、共同の吟味を開始する。
- §352-353
知識の支配力と快楽に負けることの検討
ソクラテスは、知識が他の情熱に引きずり回される奴隷のようなものではなく、人間を支配する最も強力なものであるという点についてプロタゴラスの同意を得る。そして、世間一般に言われる「快楽に負けて最善のことを行わない」という現象の真の正体を明らかにするための対話を提案する。
- §354
快楽と苦痛を基準とする善悪の判断
ソクラテスは、一般に悪いとされる不摂生や、良いとされる苦痛を伴う医療・訓練が、最終的には「快楽と苦痛」のみを基準として善悪判断されていることを示し、快楽が善であり苦痛が悪であることを合意させる。
- §355
快楽に負けて悪を行うという説の自己矛盾
ソクラテスは、善を快楽とし悪を苦痛とする前提のもとで、「快楽に負けて悪を行う」という世間の言説が、用語を「善」と「悪」に統一した際にいかに自己矛盾した滑稽な主張になるかを架空の問答を通じて暴く。
- §356
快苦の比較と生を救う測定の技術
ソクラテスは、「快楽に負ける」とは価値の少ない快楽を大きな苦痛と引き換えに選ぶことだと説明し、遠近による価値の錯覚から生を救うのは「測定の技術」であると論じる。
- §357
快楽に負けることの本質としての無知
ソクラテスは、奇数と偶数の選択において算術が必要であるように、快楽と苦痛の選択においても測定の技術、すなわち知識が必要であることを論じる。これにより、「快楽に負ける」という現象の本質が最大の無知(知識の欠如)であることが論証され、ソフィストの教育的役割の意義が示される。
- §358
自発的に悪を行う者の不在と恐怖の定義
ソクラテスは、快楽が善であり苦痛が悪であるという前提のもと、自らの意思に反して悪を行う者はいないという議論について、ソフィストたちの同意を得る。また、恐怖や恐れが悪の予期であるという定義を確認し、恐れているものを自発的に選ぶ者はいないことを導く。
- §359
勇気の特異性と勇者と臆病者の違い
ソクラテスはプロタゴラスに対し、かつて彼が主張した「勇気は他の徳と全く異なる」という言明についての釈明を求める。プロタゴラスは、勇者と臆病者は全く異なるものへと向かい、特に戦争という状況においてその違いが明確に現れると論じる。
- §360
臆病の本質としての無知と勇気の定義
ソクラテスはプロタゴラスを誘導し、臆病が恐ろしいものと恐ろしくないものについての無知であると認めさせ、最終的に勇気とはこれらについての知恵にほかならないという結論を導く。プロタゴラスは自説の矛盾を認めて沈黙し、最終的に自らの見解を否定せざるを得なくなる。
- §361-362
立場の逆転の指摘と対話の終結
ソクラテスは、互いの主張が論争を通じて最初の前提と逆転してしまった矛盾を滑稽に描写し、徳の本質の探求継続を望む。プロタゴラスはソクラテスの熱意を称賛し、議論を別の機会に延期することに同意して対話を締めくくる。
