底本
Platonis Opera, Tomus II: Tetralogia III-IV. Burnet, John, editor. Oxford: Clarendon Press, 1910.
原文データ出典
Perseus Digital Library · CC BY-SA (Perseus の利用条件による)
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要旨
本作は、人間の幸福において「快楽」と「知性(思慮や知識)」のどちらがより本質的な「善」であるかを追究する、ソクラテスとプロタルコスによる対話篇です。ソクラテスは、快楽も知識も多様で相違に満ちていることを示し、弁証法的な「一と多」の探求や、存在を「無限」「有限」「混合」「原因」の四つに分ける区分を用いて議論を深めます。対話の中で彼らは、快楽のみの生も知性のみの生も不十分であり、両者が調和した「混合された生」こそが人間にとって最善の生であるという結論に達します。この結論に基づき、身体や魂における様々な快楽と苦痛の分析、および知識や技術の正確さの階層が緻密に検討されます。最終的に、この混合された生を成り立たせる原因として「適度(均衡)」「美」「真理」が特定され、知性はこれらを通じて快楽よりもはるかに善に親近しており、価値の序列において上位に位置づけられることが示されて対話は幕を閉じます。
目次
34 チャンク
引用方式:section
- §11-12
快楽と知性の対比と快楽の多様性
快楽と知性のどちらが人間の生を幸福にするか、ソクラテスとプロタルコスがそれぞれの立場を整理し、議論を始める。ソクラテスは、快楽が多様であり、互いに異なる性質を持ちうることを指摘する。
- §13
快楽の相互対立と善としての単一性の吟味
ソクラテスは、色や形が属としては一であってもその中には反対のものや無数の相違が存在するように、快楽にも互いに反対の性質を持つものがあると主張する。そして、プロタルコスが快楽の本性における多様性を認めずすべての快楽を「善」と呼ぶことの問題点を指摘し、議論を整理するために自分の側の「思慮や知識」についても同様の問いを適用することを提案する。
- §14
知識の多様性と一と多をめぐる問題の提示
ソクラテスは、快楽と同様に知識にも多様性や相違があることを示し、両者の議論を対等に扱うことで合意する。続いて彼らは、「一と多」をめぐる議論のうち、通俗的な問題(個人の肉体的変化や部分の分割)ではなく、より深遠で未解決の哲学的問題へと議論を移行させようとする。
- §15-16
一と多の真の困難とプロメテウスの方法
ソクラテスは、生成消滅するものをめぐる通俗的で平易な「一と多」のパズルを退け、永遠に存在する単子(モナド)をめぐる真正の困難を指摘する。その解決のために、万物を「一」から限界と無限の相互関係に基づき具体的な中介の数によって秩序づけていく、神から授けられた弁証法的な探求方法(プロメテウスの贈り物)を提示する。
- §17
一と無限の間の中間項と文字や音楽の例
ソクラテスは、「一」と「無限の多」の間にある「数(中間項)」を把握することの重要性を、文字(音声)や音楽(音程やハルモニア)の具体例を用いて説明し、これが弁証術と問答闘争術の分水嶺であることを示す。
- §18-19
テウト神の文字発明と中間の数の把握
ソクラテスは、一と多を把握したのちにその中間項である数(有限性)を把握することの重要性を、エジプトのテウト神による文字の発明という神話的な例を用いて説明し、これが知恵と快楽の優劣を競う対話の根本的な課題であることを示す。
- §20-21
快楽のみの生と知性のみの生の吟味
プロタルコスはソクラテスに問いに答えるよう促し、ソクラテスは「善」が快楽とも知恵とも異なる第三のものである可能性を提示する。その検証のために、一切の知性のない純粋な快楽だけの生と、一切の快楽のない純粋な知性だけの生を個別に検討し、どちらも人間の選択すべき生ではないことを示す。
- §22-23
混合の生の優越と存在の四区分の導入
ソクラテスとプロタルコスは、快楽と知性の混ざり合った「共同の生」こそが最善の生であることを合意し、さらにその生を良くしている原因(二等賞)を決定するために、存在者を「無限」「有限」「混ざり合ったもの」「原因」の四つに区分する議論を開始する。
- §24-25
無限と限の定義と「より多くとより少なく」
ソクラテスは、度合い(「より多く」「より少なく」)を持ち限界のない領域を「無限」として規定し、それに対して等しさや数比のように固定された客観的な尺度をもたらす領域を「限(限定)」として区別する。
- §26
混合による生成の類と第四の原因の導入
ソクラテスは無限と限の混ざり合いによって生まれる健康や調和、美などの具体例を挙げ、これら両者から生じる第3の類を「実在への生成」と定義する。さらに議論を深めるため、生成するものにはすべて原因が必要であるとして、第4の類である「原因(作り出すもの)」を導入する。
- §27-28
四区分の整理と快楽および知性の分類
ソクラテスは「原因」を第四の類として確認し、四つの類を再整理する。そして、快楽が「無限」の類に属するのに対し、知性や知識が天や地を支配する「王」としてどの類に位置づけられるべきかを、より長い議論を通じて検証し始める。
- §29
宇宙の四大元素と我々の肉体を構成する元素
ソクラテスとプロタルコスは、我々の肉体を構成する四大元素が微小で不純であるのに対し、宇宙を構成する四大元素は美しく強力であり、我々の肉体が宇宙の肉体(マクロコスモス)によって養われているという関係を確認する。
- §30-31
宇宙の知性と調和の回復による快楽
ソクラテスとプロタルコスは、宇宙全体が魂と知性を有しており、人間の魂や知性もそこから来ていることに合意する。さらに、彼らは「混合」の類に注目し、動物における調和の破壊が苦痛を、その回復が快楽を生み出すことを確認する。
- §32
期待による快楽と苦痛および中立的状態
ソクラテスは、身体的な快楽と苦痛が調和の自然な回復と破壊に関わっていることを渇きや温度の例で指摘し、さらにそれらの状態に対する精神的な予期(期待と恐怖)という魂固有の快楽と苦痛の形態を導入する。また、破壊も回復も起こらない中立的な状態においては、快楽も苦痛も生じないことを提示する。
- §33
快苦のない第三の状態と感覚や記憶の分析
ソクラテスは快楽でも苦痛でもない「第三の状態」を提示し、それが知的な生や神々の状態に適合することを述べる。その後、魂それ自体の快楽を明らかにするために、記憶と感覚の機制の分析に着手する。
- §34-35
想起の定義と魂に属する欲望の本性
ソクラテスは感覚、記憶、想起(思い出されること)を定義し、それらの相互関係を明らかにした上で、身体的な飢えや渇きといった「欲望」は身体ではなく、満たされることの記憶を通じて魂において生じるものであることを論証する。
- §36
二重の苦痛と快楽および苦痛の真偽の問い
ソクラテスとプロタルコスは、身体の欠乏と魂の期待から生じる「二重の苦痛」の分析を通じて、期待と記憶の混在が苦痛と快楽を同時にもたらす場合があることを議論し、さらに快楽や苦痛における「真偽」の可能性について探求し始める。
- §37-38
偽なる快楽の可能性と信念の形成過程
ソクラテスとプロタルコスは快楽と信念における真偽のあり方を検討し、快楽も誤りを伴い得ることを確認する。さらに、感覚と記憶から信念が形成され言論へと至る過程を遠くの物体を見分ける例で説明し、魂を書物に例え始める。
- §39-40
魂の書記と画家および期待による真偽の快楽
ソクラテスは魂の中に働く「書記」と「画家」の比喩を導入し、記憶と感覚から言葉や像がどのように描かれるかを説明する。さらに、未来への期待(エルピス)の分析を通じて、善人には真の快楽が、悪人には偽の快楽が生じることを論じる。
- §41-42
遠近法による快苦の過大視と中間の静止状態
ソクラテスとプロタルコスは、悪しき快楽と偽なる快楽の違いを確認した上で、遠近法が視覚の大きさを誤らせるように、快楽と苦痛が並置や観察の距離によって実際よりも誇張されて認識される「偽なる快楽」の構造を論じ、さらに身体が静止している中間の状態における快苦の不在へと議論を進める。
- §43-44
中間の生と快楽を全否定する論者の見解
ソクラテスとプロタルコスは、変化の度合いによって快楽や苦痛が生じない「中間の生」が存在することを合意し、快楽を完全に否定する物理学者(フィレボスの敵たち)の極端な意見を検証するため、彼らの議論を追うことを決定する。
- §45
最大の快楽と身体や魂の悪徳との関係
ソクラテスとプロタルコスは、快楽の本性を探求するために、極端で最大の快楽に目を向けるべきであると合意し、病気の状態や放埒な生活における激しい快楽の分析を通じて、最大の快楽は徳ではなく魂や身体の劣悪さ(悪徳)において生じるものであると結論づける。
- §46-47
身体および魂における快楽と苦痛の混合
ソクラテスとプロタルコスは、身体内部における快楽と苦痛の混合状態(疥癬を掻く快感など)と、そのうち快楽が優勢な場合の狂騒的な性質を論じる。さらに、身体と魂の対比による混合快楽に言及した後、魂自体に生じる混合(感情に伴う苦痛)の検討に入る。
- §48
劇における感情と滑稽さをもたらす自己無知の三分類
ソクラテスとプロタルコスは、感情や劇の観劇における快楽と苦痛の混合を検証し、特に喜劇的な「滑稽さ」を分析するために、「汝自身を知れ」に反する自己無知の三つの現れ(財産、身体、徳の過大評価)を分類する。
- §49-50
滑稽さにおける嫉妬と笑いおよび純粋な快楽への移行
ソクラテスとプロタルコスは、自己を誤解している人々を強者と弱者に分類し、弱者における無害な自己誤認が引き起こす「滑稽さ」に対する笑い(快楽)と、友人の不幸に対する嫉妬(苦痛)が混ざり合う喜劇的感情の構造を明らかにします。これにより様々な感情における快楽と苦痛の混合の証明を終え、議論は混合されていない純粋な快楽の検討へと移行します。
- §51-52
苦痛を伴わない純粋な快楽と美の諸形態
ソクラテスとプロタルコスは、純粋な(混合されていない)快楽について議論を開始し、美しい色や形、音、香りに伴う快楽、さらには学ぶこと(知識)に伴う快楽が、苦痛を事前に伴わない純粋なものであることを確認する。そして、快楽と知識の真実性を判定するために、さらに純粋なものと不純なものの区分を進める。
- §53-54
快楽の純粋さと生成としての快楽の限界
ソクラテスとプロタルコスは、白の純粋さを例に挙げ、混じりけのない少量の快楽が不純な大量の快楽より優れていることを論じた後、生成と存在(実体)の関係性を整理し、常に「生成」の過程にすぎない快楽はそれ自体が「善」にはなり得ないことを明らかにする。
- §55-56
知識の純粋さと諸技術における正確さの区分
ソクラテスとプロタルコスは快楽を善とすることの不合理性を指摘したのち、知性や知識の検討へと移行する。彼らは、推測や訓練に頼る不確実な技術と、測定器具を用いて正確さを保つ技術を区別し、さらに算術などの学問にも大衆的なものと哲学的なものの二種類が存在することを示す。
- §57-58
哲学的知識の純粋さと最高位の術としての問答法
ソクラテスとプロタルコスは、哲学的な数学(算術と測定術)が実用的なものより正確さと純粋さにおいて遥かに優れていることに合意し、さらに、実用性や名声を離れて真理そのものを愛し追究する「問答法」の能力こそが最も真実で純粋な知性を獲得していると判断する。
- §59
不変の実在に関する知の真実性と混合への準備
ソクラテスとプロタルコスは、変化し生成消滅する自然界に関する認識には真実さや確実性が欠けており、常に同一性を保つ実在に関する認識(理性や知性)こそが最も真実であると合意する。そして、快楽と知性の混合に向けて準備を進める。
- §60-61
自足性の再確認と善き生のための混合の開始
ソクラテスとプロタルコスは過去の議論を振り返り、善の基準として「自足性」を再確認する。純粋な知性や快楽単独では人間の生活として十分ではないため、最も望ましい善なる生活を実現するために両者を混合する方法の検討を始める。
- §62-63
混合生活に必要な知識の範囲と快楽の選別
ソクラテスとプロタルコスは、神的な真の知識だけでなく、不完全な人間的知識や音楽も混合生活に不可欠であることを確認する。さらに、快楽と知性を擬人化して問いかけることで、双方が破滅的で激しい快楽を排除し、真実な快楽と自他を完全に知る知性とが同居することを望んでいることを明らかにする。
- §64-65
美と適度と真理による善の特定と知性の優位
ソクラテスとプロタルコスは、混合のなかの最善の原因として、美、適度(均衡)、真理の三つのイデアを特定する。そして、これら三つの要素それぞれについて、知性が快楽よりもはるかに優れており、善により親近であることを確認する。
- §66-67
善の序列の確定と快楽に対する理性の優位
ソクラテスとプロタルコスは、善に関わる価値の序列として適度、美、理性、知識、純粋な快楽を挙げ、理性が快楽よりもはるかに優れていることを確認する。そして、対話の最初の前提を振り返り、快楽は第一位ではなく第五位に甘んじるべきであるとして議論を締めくくる。
