§1.34.24εἰσὶ δὲ δὴ καὶ ἔθει καὶ προαιρέσει.
また、習慣や選択による徳もある。
αἱ δὲ δὴ μετὰ λόγου οὖσαι τελέως ἀρεταί εἰσιν ἐπαινεταὶ ἐπιγινόμεναι.
一方で、ロゴスを伴うものは、後から生じる、賞賛されるべき完全な徳である。
ἔστιν οὖν ἡ φυσικὴ ἀρετὴ αὕτη ἡ ἄνευ λόγου χωριζομένη μὲν τοῦ λόγου μικρὰ καὶ ἀπολειπομένη τοῦ ἐπαινεῖσθαι, πρὸς δὲ τὸν λόγον καὶ τὴν προαίρεσιν προστιθεμένη τελείαν ποιεῖ τὴν ἀρετήν.
それゆえ、ロゴスのないこの自然な徳は、ロゴスから切り離されているときには、わずかなものであり、賞賛されるには至らないが、ロゴスと選択に付け加えられるとき、徳を完全なものにする。
διὸ καὶ συνεργεῖ τῷ λόγῳ καὶ οὐκ ἔστιν ἄνευ τοῦ λόγου ἡ φυσικὴ ὁρμὴ πρὸς ἀρετήν.
したがって、徳へと向かう自然な衝動は、ロゴスに協力するものであり、ロゴスなしには存在しない。
§1.34.25οὐδʼ αὖ ὁ λόγος καὶ ἡ προαίρεσις οὐ πάνυ τελειοῦται τῷ εἶναι ἀρετὴ ἄνευ τῆς φυσικῆς ὁρμῆς.
また逆に、ロゴスと選択も、自然な衝動なしには、徳であることにおいて全く完全にはならない。
διὸ οὐκ ὀρθῶς Σωκράτης ἔλεγεν, φάσκων εἶναι τὴν ἀρετὴν λόγον·
それゆえ、ソクラテスが徳はロゴスであると主張して語ったのは、正しくなかった。
οὐδὲν γὰρ ὄφελος εἶναι πράττειν τὰ ἀνδρεῖα καὶ τὰ δίκαια, μὴ εἰδότα καὶ προαιρούμενον τῷ λόγῳ.
なぜなら、知ることもロゴスによって選択することもなく、勇敢なことや正義にかなったことを行うのは、何の役にも立たないからである。
διὸ τὴν ἀρετὴν ἔφη λόγον εἶναι, οὐκ ὀρθῶς, ἀλλʼ οἱ νῶν βέλτιον·
それゆえ、彼は徳をロゴスであると言ったが、それは正しくない。 しかし、現在の学者たちはより良く言っている。
τὸ γὰρ κατὰ τὸν ὀρθὸν λόγον πράττειν τὰ καλὰ, τοῦτό φασιν εἶναι ἀρετήν·
というのも、彼らは、正しいロゴスに従って美わしい事柄を行うこと、これが徳であると言っているからである。
§1.34.26ἀρθῶς μὲν οὐδʼ οὗτοι.
しかし、彼らも正しくは言っていない。
πράξαι μὲν γὰρ ἄν τις τὰ δίκαια προαιρέσει μὲν οὐδεμιᾷ, οὐδὲ γνώσει τῶν καλῶν, ἀλλʼ ὁρμῆ τινι ἀλόγῳ, ὀρθῶς δὲ ταῦτα καὶ κατὰ τὸν ὀρθὸν λόγον (λέγω δέ, ὡς ἂν ὁ λόγος ὁ ὀρθὸς κελεύσειεν, οὕτως ἔπραξεν)·
なぜなら、ある人は、いかなる選択によってでもなく、美わしい事柄の知識によってでもなく、ある非理性的な衝動によって、正義にかなった事柄を行うかもしれないが、それは正しく、かつ正しいロゴスに従って行われる(私が言っているのは、正しいロゴスが命じるであろう通りに、そのように行ったということである)。
ἀλλ᾿ ὅμως ἡ τοιαύτη πρᾶξις οὐκ ἔχει τὸ ἐπαινετόν.
しかしながら、そのような行為は賞賛されるべき性質を持たない。
ἀλλὰ βέλτιον, ὡς ἡμεῖς ἀφορίζομεν, τὸ μετὰ λόγου εἶναι τὴν ὁρμὴν πρὸς τὸ καλόν·
むしろ、私たちが規定するように、美わしいものへと向かう衝動がロゴスを伴っていること、これがより優れたことである。
τὸ γὰρ τοιοῦτον καὶ ἀρετὴ καὶ ἐπαινετόν.
なぜなら、そのような状態こそが徳であり、賞賛されるべきものだからである。
§1.34.27πότερον δ᾽ ἐστὶν ἡ φρόνησις ἀρετὴ ἢ οὔ, ἀπορήσειεν ἄντις.
ところで、思慮が徳であるか否かについて、疑念を抱く人がいるかもしれない。
οὐ μὴν ἀλλʼ ἐντεῦθεν ἂν γένοιτο δῆλον ὅτι ἀρετή.
とはいえ、以下のことからそれが徳であることは明らかになるであろう。
εἴπερ γὰρ ἡ δικαιοσύνη καὶ ἡ ἀνδρεία κε αἱ ἄλλαι ἀρεταί, διότι τῶν καλῶν πρακτικαί, καὶ ἐπαινεταὶ εἰσίν, δῆλον ὡς καὶ ἡ φρόνησις τῶν ἐπαινετῶν ἄν τι εἴη καὶ τῶν ἐν ἀρετῆς τάξει ὄντων.
なぜなら、もし正義や勇敢やその他の徳が、美わしい事柄を実践するものであるがゆえに賞賛されるものであるならば、思慮もまた賞賛されるべきものの一つであり、徳の列に属するものであることは明らかだからである。
ἐφʼ ἃ γὰρ ἡ ἀνδρεία ὁρμᾷ πράττειν, ἐπὶ ταῦτα καὶ ἡ φρόνησις.
というのも、勇敢が実践へと赴くのと同じ事柄に、思慮もまた赴くからである。
τὸ γὰρ ὅλον ὡς ἂν αὕτη προστάττῃ, οὕτω καὶ ἡ ἀνδρεία πράττει, ὥστε εἰ αὐτὴ ἐπαινετὴ τῷ ποιεῖν ἃ ἂν ἡ φρόνησις προστάττῃ, ἥ γε φρόνησις τελείως ἂν εἴη καὶ ἐπαινετὴ καὶ ἀρετῶ.
なぜなら、総じてこの思慮が命じるであろう通りに、そのように勇敢もまた実践するのであり、したがって、もし勇敢が思慮の命じるであろうことを行うことによって賞賛されるのであるなら、思慮こそは完全に賞賛されるべきものであり、徳であるはずだからである。
§1.34.28πότερον δ᾽ ἐστὶν ἡ φρόνησις πρακτικὴ ἢ οὔ, ἴδοι ἄν τις ἐντεῦθεν, ἐπὶ τὰς ἐπιστήμας ἐπιβλέψας, οἷον ἐπὶ τὴν οἰκοδομικήν.
ところで、思慮が実践的であるか否かは、諸々の技術に、例えば建築術に目を向けることで、以下のことから見て取ることができるだろう。
ἔστιν γάρ, ὡς φαμέν, ἐν οἰκοδομικᾖ ὃ μὲν ἀρχιπέκτων τις καλούμενος, ὃ δὲ ὑπηρετῶν τούτῳ οἰκοδόμος·
なぜなら、私たちが言うように、建築術においては、一方は棟梁と呼ばれる者であり、他方はこれに仕える大工だからである。
οὗτος δʼ ἐστὶν ποιητικὸς οἰκίας.
そして、後者は家を制作する者である。
ἐστὶν δὲ καὶ ὁ ἀρχιτέκτων, καθὸ οὗτος ἐποίει οἰκίαν, ποιητικὸς οἰκίας.
しかし、棟梁もまた、この大工が家を作る限りにおいて、家を制作する者である。
ὁμοίως δὲ ἐπὶ τῶν ἄλλων τῶν ποιητικῶν ἔχει, ἐν αἷς ἔστιν ἀρχιτέκτων καὶ ὑπηρέτης τούτου.
そして、棟梁とその仕え手が存在するような、他の制作的な技術についても同様である。
ποιητικὸς ἄρα τινὸς καὶ ὁ ἀρχιτέτων ἔσται, καὶ τοῦ αὐτοῦ τούτου 〈οὗ〉 ποιητικὸς καὶ ὁ ὑπηρετικός.
したがって、棟梁もまた何らかの制作的な者であり、仕え手が制作するのと同じそのものを制作するのである。
§1.34.29εἰ τοίνυν ὁμοίως καὶ ἐπὶ τῶν ἀρετῶν ἔχει, ὅπερ εἰκὸς καὶ εὔλογον, καὶ ἡ φρόνησις ἂν εἴη πρακτική.
それゆえ、もし徳に関しても同様であるとするなら(これはありそうなことであり、道理にかなっている)、思慮もまた実践的であろう。
αἱ γὰρ ἀρεταὶ πᾶσαι πρακτικαὶ εἰσίν, ἡ δὲ φρόνησις ὥσπερ ἀρχιτέκτων τις αὐτῶν ἐστίν·
なぜなら、すべての徳は実践的であり、思慮はそれらのいわば棟梁のようなものだからである。
ὅπως γὰρ αὕτη προστάξει, οὕτως αἱ ἀρεταὶ καὶ οἳ κατʼ αὐτὰς πράττουσιν·
というのも、この思慮が命じる通りに、徳およびそれらに従って実践する人々が実践するからである。
ἐπεὶ οὖν αἱ ἀρεταὶ πρακτικαί, καὶ ἡ φρόνησις πρακτικὴ ἂν εἴη.
したがって、徳が実践的である以上、思慮もまた実践的であろう。
§1.34.30πότερον δὲ αὕτη πάντων ἄρχει τῶν ἐν τῇ ψυχῇ, ὥσπερ δοκεῖ καὶ ἀπορεῖται;
ところで、この思慮は、思われているように、また疑問に付されているように、魂の中にあるすべてのものを支配しているのだろうか、それとも違うのか。
ἢ οὔ; τῶν γὰρ βελτιόνων οὐκ ἂν δόξειεν, οἷον τῆς σοφίας οὐκ ἄρχει.
なぜなら、より優れたものたちを支配しているとは思われないだろうからであり、例えば、それは智慧を支配してはいない。
ἀλλά, φησίν, αὕτη ἐπιμελεῖται πάντων, καὶ κυρία ἐστὶ προστάττουσα.
しかし、ある人は、思慮がすべてのことを配慮し、命令を下す主権を持っている、と言う。
§1.34.31ἀλλʼ ἴσως ἔχει ὥσπερ ἐν οἰκίᾳ ὁ ἐπίτροπος.
しかしおそらく、それは家における家令のようなものである。
οὗτος γὰρ πάντων κύριος καὶ πάντα διοικεῖ ἀλλʼ οὔπω οὗτος ἄρχει πάντων, ἀλλὰ παρασκευάζει τῷ δεσπότῃ σχολήν, ὅπως ἂν ἐκεῖνος μὴ κωλυόμενος ὑπὸ τῶν ἀναγκαίων ἐκκλείηται τοῦ τῶν καλῶν τι καὶ προσηκόντων πράττειν.
なぜなら、家令はすべてのことの主権を持ち、すべてを管理するからである。 しかし、だからといって彼がすべてを支配しているわけではなく、むしろ、主人が必要不可欠な用事に妨げられて、美わしくふさわしいことを行うことから締め出されないように、主人に余暇を整えてあげるのである。
§1.34.32οὕτω καὶ ὁμοίως τούτῳ ἡ φρόνησις ὥσπερ ἐπίτροπός τίς ἐστι τῆς σοφίας, καὶ παρασκευάζει ταύτῃ σχολὴν καὶ τὸ ποιεῖν τὸ αὐτῆς ἔργον, κατέχουσα τὰ πάθη καὶ ταῦτα σωφρονίζουσα.
このように、またこれと同様に、思慮は智慧のいわば家令のようなものであり、情念を抑え、これらを節制させることによって、智慧のために余暇と、智慧がそれ自体の仕事を果たすことを整えるのである。