底本
Aristotle. Aristotelis Quae Feruntur Magna Moralia. Susemihl, Franz, editor. Leipzig: Teubner, 1883
原文データ出典
Open Greek and Latin · CC BY-SA 4.0
元ファイル: urn:cts:greekLit:tlg0086.tlg022.1st1K-grc1
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要旨
本書は、人間の生きる目的である「幸福」とそれを構成する「徳(アレテー)」の本質を体系的に探究する倫理学・政治学の論考である。著者はまず、国家の追究すべき「人間にとっての最善の善」を定義し、幸福とは魂の徳に即した活動であると位置づける。続いて、魂の領域を理性的部分と非理性的部分に二分した上で、品格の徳が感情の「過度」と「不足」を避ける「中庸(メソテース)」によって保たれることを、勇気や正義、寛大さといった具体的な美徳を通じて論証する。さらに、行為の自発性や選択のメカニズム、思慮や智慧などの知性的徳の重要性、そして自制と無自制の葛藤、快楽の価値について詳細な分析を加える。終盤では、運と幸福の関係や完璧な人間性としての「善美(カロカガティア)」が語られ、最後は人間が共同体で生きる上で不可欠な「友情(親愛)」の諸形態と、自己愛や自足的な生における友人の必要性をめぐる考察をもって締めくくられる。
目次
71 チャンク
引用方式:book.chapter.section
- §1.1.1-1.1.10
政治学の一分野としての倫理学と徳の探究
倫理的探究(徳論)が政治学の一部であることを位置づけ、ソクラテスやプラトンら先人の美徳論の誤りを批判しつつ、政治学の目的である「我々にとっての善」の追究を開始する。
- §1.1.11-1.1.18
イデア論の批判と人間にとって最善の善
政治学が追究すべき「善」の意味を問う。イデアや普遍的定義、帰納法による共通善はいずれも政治学の対象にはなり得ず、私たちは「人間にとって最善の善」を論じなければならないことを示し、また善がすべての範疇(カテゴリー)にまたがるため単一の科学では扱えないことを指摘する。
- §1.1.19-1.1.26
カテゴリーにおける善とソクラテスの徳論批判
時間や関係などのカテゴリーにおける善は個別の技術に属するため政治学の対象とはならず、人間にとって実用的な善に焦点を当てるべきである。イデアを善の原理とすることや、ソクラテスのように徳を知識とみなすアプローチの誤りについて論じられる。
- §1.2.1-1.2.11
諸善の分類と完全な目的としての最善
善の様々な分類(尊いもの、称賛されるべきもの、能力、善を維持するもの、いかなる場合も望ましいもの、目的としてのもの)を提示し、完全な目的としての最善のもの(幸福)のあり方と、その構成要素との比較における難問を考察する。
- §1.3.1-1.3.5
善の三分と状態に対する活動の優位
善を魂・身体・外部に三分し、最善である魂の善をさらに思慮・徳・快楽に分ける。また、目的には活動(使用)と状態の二通りがあり、常に活動が状態よりも優先されることを提示する。
- §1.4.1-1.4.10
徳に即した活動としての幸福の定義
魂の機能である「生きること」と魂の徳の相乗効果から、幸福とは「徳に即した活動」であると定義され、完全な人間が全生涯を通じて達成すべきものであることが示される。また、魂の栄養摂取的部分には独自の衝動や活動がないため幸福に寄与しないことが検証され、続いて「徳」自体の厳密な定義が必要であることが述べられる。
- §1.5.1-1.5.5
魂の区分と性格の徳における中庸
徳が生じる魂の領域を理性的部分と非理性的部分に二分し、品格の徳が非理性的部分に属すること、およびそれが過度と欠乏によって損なわれ中庸によって保たれることを論じる。
- §1.6.1-1.6.3
快苦との関わりと習慣による性格の徳の形成
徳が快楽と苦痛に関わるものであること、そして「品格の徳」という名称が「習慣」に由来することを示す。さらに、石の落下運動などの自然な性質が習慣によって変えられないのと同様に、品格の徳もまた本性によってではなく習慣づけを通じて形成されることを論じる。
- §1.7.1-1.7.4
魂の現象の三分と状態の中庸としての徳
徳を定義するために、魂の中で生じるものを感情・能力・状態に分類し、特に「状態」において適切な中間を保つことが徳の本質であることを、怒りや自慢の例を通じて論じる。
- §1.8.1-1.8.3
快苦に関する中庸としての徳と本質的悪徳
状態の良し悪しが中間に向かうか否かによって規定され、徳が感情の中間である以上、徳は快楽と苦痛に関係することを論じる。また、姦通のようにそれ自体がすでに過度であり、度合いによって測られない例外的な悪徳についても言及する。
- §1.9.1-1.9.11
中庸に対立するものと徳の自発性
徳という中間に対して何が反対であるか(過度か不足か)を検討し、徳の獲得の困難さを論じる。さらに、ソクラテスの主張を否定し、徳や悪徳は私たちの意志に依存する自発的なものであることを立証する。
- §1.10.1-1.10.2
原理の状態とそこから生じる帰結の関係
すべての自然の本性や幾何学的な原理において、出発点となる原理(始まり)の状態が、その後に続く生成物や結論の状態を決定することを説明する。
- §1.11.1-1.11.5
行動の原理としての人間と徳の自己依存性
人間もまた原理から自発的な行動を生み出す存在であり、行動が変化する以上その原理(選択や欲求)も変化するため、徳や悪徳は自己に依存する。ただし、身体と同様に、魂の卓越性も本性(素質)が備わっていなければ、意図するだけで最高に達するわけではない。
- §1.12.1-1.12.4
自発的なものの定義と欲望に基づく行動
徳において最も重要となる「自発的なもの」の定義に着手し、その基礎となる欲求を欲望・気概・願望の3つに分類した上で、欲望に基づく行動が自発的であることを、無自制をめぐる反論を退けながら論じる。
- §1.13.1-1.13.4
気概や願望に基づく行動と自発性の難問
自制、気概、願望に基づく行動が自発的であるか否かをめぐる、対立する議論が提示され、これら三つの欲求のどれを基準にしても矛盾が生じることが示される。これを受け、自発性についてのより明確な定義の必要性が確認される。
- §1.14.1-1.14.3
強制の概念と外的原因による行動の規定
自発性を定義するための準備として、「強制」の概念が無生物や動物、人間にどのように適用されるかを論じ、行動の原因が内にあるか外にあるかによって強制の有無が区別されることを示す。
- §1.15.1-1.15.2
強制の定義と必然による行為の範囲
強制の定義を原因が外部にある行為とし、次に必然について、それが快楽による行為ではなく、外部のやむを得ない事情によって不利益を受け入れるような状況に適用されることを論じる。
- §1.16.1-1.16.2
自発性と考量および思考との関連
自発的な行為が「思考に伴うもの」であることを、反自発的な行為(必然・強制・無思考)との対比や、惚れ薬で男を死なせてしまった女の裁判の具体例を通じて論じる。
- §1.17.1-1.17.11
選択の定義と熟慮の対象となる行為の領域
選択の本質を解明するために、欲求・望み・思考との差異を検証し、それが「思考を伴う熟慮的な欲求」であることを導き出す。さらに、選択は手段が未規定で、行うか否かが私たちに委ねられている行為の領域に適用されることを論じる。
- §1.18.1-1.18.6
思考の性質と目的を正しく定める徳の役割
思考力と感覚の違いについて議論したのち、徳が目指すものが「目的」であるのか「目的に至る手段」であるのかを技術(学問)との比較から検討し、徳とは手段ではなく目的を正しく設定することを目指すものであると結論づける。
- §1.19.1
徳の目的としての美と行為への評価
徳の目的が美(高尚さ)であることを論じ、徳の本質は手段(行為)よりも目的(内面の意志)にあることを、絵画の比喩や人々の評価のあり方を用いて説明する。
- §1.20.1-1.20.12
真の勇気の定義と五つの類似した勇気の吟味
勇気がどのような恐怖と大胆さに関するものであるかを定義し、経験、無知、感情、羞恥心、希望による複数の偽りの勇気を退けた上で、美のために理に従って直近の致命的危険に立ち向かう真の勇気の特徴を明らかにする。
- §1.21.1-1.21.4
節制の定義と身体的快楽に関する中庸
勇気についての議論を締めくくり、次に節制の定義に入る。節制は快楽と苦痛(特に触覚と味覚)に関する過度(放縦)と不足(無感覚)の中庸であり、美そのもののために選択される徳であると説明される。
- §1.22.1-1.22.3
温厚さの定義と怒りに関する中庸
温厚さが怒りっぽさと無怒の中庸であることを定義し、すべての徳が中庸であるという議論を一般化する。さらに、怒りの過度と不足の双方が非難されるべきであり、その中間にある温厚さが称賛されるべきであることを示す。
- §1.23.1-1.23.2
気前のよさの定義と財貨に関する中庸
気前のよさを浪費と吝嗇の中庸として定義し、それらの極端における金銭消費のあり方を対比させて、中庸にある称賛すべき人の特徴を明らかにする。
- §1.24.1
吝嗇の諸形態と気前のよさの範囲
吝嗇の様々な形態(けちや卑屈な利得漁りなど)を分類し、財貨の獲得や準備は気前のよさの役割ではなく、財産獲得術の領域であることを説明する。
- §1.25.1-1.25.3
大気量の定義と名誉に関する中庸
大気量が名誉に関する中庸の美徳であり、優れた者たちからの名誉を重んじる性質であることを示し、虚栄および小気量という二つの極端な状態を定義してその中庸であることを確認する。
- §1.26.1-1.26.3
豪奢の定義と見栄っ張りとしみったれの中庸
豪奢(大公至大)について、見栄っ張りとしみったれの中庸として定義し、その名称の由来や、本来の意味と比喩的な使用との区別を説明する。
- §1.27.1
嫉妬と悪意の中庸としての義憤の定義
義憤を嫉妬と他人の不幸を喜ぶ心との中庸として定義し、他人の幸不幸に対するそれぞれの態度(ふさわしさの有無への反応)の違いを明らかにする。
- §1.28.1-1.28.2
頑固と迎合の中間としての威厳と交際のあり方
威厳(荘重さ)を頑固と迎合の中間的な状態として定義し、他者との交わりにおけるそれぞれの特徴的な態度を説明する。
- §1.29.1-1.29.2
破廉恥とおののきの中庸としての慎みの定義
「慎み」(羞恥心)が「破廉恥さ」と「おののき」の中間概念であることを示し、破廉恥な人とおののいている人の極端な言動を対比した上で、慎み深い人のふさわしい言動のあり方を定義する。
- §1.30.1-1.30.2
道化と野暮の中庸としての機知と冗談への態度
機知が道化(悪ふざけ)と野暮(無骨)の中間であることを説明し、自ら適切に冗談を言えることと他者からのからかいを耐え忍ぶことの双方が機知の現れであることを示す。
- §1.31.1-1.31.2
へつらいと敵意の中庸としての友愛の規定
友愛がへつらいと敵意(嫌われ)の中間であることを規定し、友好的な人が事実を誇張も過小評価もせず、自分の意見に従って適切に振る舞うことを説明している。
- §1.32.1-1.32.2
自慢ととぼけの中庸としての誠実の定義
真実(誠実)を自慢ととぼけの中間として定義し、誠実な人は自分のありのままを誇張も卑下もせず主張することを説明する。
- §1.33.1-1.33.9
完全な正義と部分的な正義の区別と比例的等しさ
正義の探求を始め、法に従う「完全な徳としての正義」と、他者に対する等しさを求める「部分的な正義」を区別し、後者が過度と不足の中間であり、比例的な等しさに基づくものであることを論じる。
- §1.33.10-1.33.16
交換的正義と市民的正義の本質
本チャンクでは、国家を維持する比例的な正義が、プラトンの『国家』における分業や貨幣による価値の均等化を通じて説明される。さらに、ピュタゴラス派の同害報復説への批判を通じて、真の正義が対等な市民間の「市民的正義」にあり、支配・被支配関係にある家政的な関係には適用されないことが示される。
- §1.33.17-1.33.23
家庭的正義と自然的正義および行為の自発性
家庭内における不平等な関係(夫婦など)と市民的関係における「正義」の違い、さらに「本性(自然)による正義」と「法律による正義」の可変性を論じ、行為の自発性と知識が「正義・不正」を定義する条件であることを解説する。
- §1.33.24-1.33.30
無知による不正と不正を被る自発性
本チャンクでは、行為者が免責される「自然な無知」と、自ら原因を作ったため免責されない「自発的な無知」の区別が論じられる。また、不正を被ることが自発的に行われ得るかについて、譲歩や無自制の例を通じて検討される。
- §1.33.31-1.33.36
自身に対する不正の不可能性と分配における不正
自分自身に対して不正を働くことが可能かという問いに対し、それは国家的・市民的な不正の観点からは不可能であり、魂の部分間の関係のような家政的な意味においてのみ可能であると論じ、さらに不当な分配において分配者と受給者のどちらが不正を働いているかを考察する。
- §1.34.1-1.34.12
正しいロゴスと魂の理性的部分および思慮の定義
正しいロゴスとは何かを明らかにするため、魂のロゴスを持つ部分が計画的部分と認識的部分に分かれることを示し、さらに真理を扱う状態の区別、特に制作と実践の違いに基づく思慮の定義と徳としての性質を論じている。
- §1.34.14-1.34.23
智慧と諸々の知性的徳および自然的徳
智慧と思慮、理解力、機敏さという異なる知性的徳の定義と関係性が議論され、なぜ倫理的な探究において智慧が論じられるべきかが説明された上で、自然的徳の存在が指摘される。
- §1.34.24-1.34.32
思慮の実践性と智慧に対する家令としての役割
自然な徳とロゴスを伴う徳の関係を整理し、思慮が徳であり実践的であることを建築術の比喩を用いて論じる。また、思慮は智慧を支配するのではなく、情念を制御して智慧の活動のための余暇を提供する家令のような役割を果たすことを示す。
- §2.1.1
公平の本質と法の不備を補う公平な人
公平(エピエイケイア)の本質と公平な人の定義について。法律が一般的一般論しか提示できないがゆえに生じる不備を、法律上の権利を譲歩することで補う人が公平な人であると論じる。
- §2.2.1
良識と公平の関係および判断と実践の区別
良識(よき判断力)と公平の関係について論じ、両者がともに法の不備による省略箇所に関わるものであることを示しつつ、良識が判断を担い、公平がその判断に基づく実践を担うという役割の違いを定義する。
- §2.3.1-2.3.8
良慮の定義と思慮および端的な善との関係
良慮の定義と思慮との関係を述べ、医学の比喩を用いて「端的な善」と「自分にとっての善」を区別することにより、不正な人に思慮が随伴するという矛盾を解決し、劣った人に対する不正の成否という問題を提起する。
- §2.3.9-2.3.17
外面的な善の危険と中庸としての徳の無害性
劣悪な者が富や支配権を持つことの弊害を身体の治療との類比から説明し、諸徳が理性において調和することを示す。また、徳そのものが過剰になって人を害することはないという点を、徳が本質的に中庸であることに基づいて論証する。
- §2.4.1-2.4.3
自制と無自制の特異性と劣悪さの三形態
自制と無自制についての新たな議論の端緒を開き、自制が一般の徳と異なり理性と情念の葛藤を伴うこと、そして魂における劣悪さの三形態(悪徳、無自制、獣性)を示す。
- §2.5.1-2.5.3
悪徳としての獣性と対比される神的な徳
極端な悪徳である「獣性」と、それに対比される人間を超えた「神的な徳」について規定し、神は徳を超越した存在であるためその対抗馬となる徳は無名であることを説明する。
- §2.6.1-2.6.9
無自制を巡るソクラテス説の検討とアポリア
ソクラテスによる無自制の存在否定を批判的に検討し、無自制な行動における知識や思い込みの役割を巡る困難(アポリア)を提示する。さらに、節制と自制、理性と欲望が食い違う場合の帰結についてのパラドックスを分析する。
- §2.6.10-2.6.17
無自制の対象範囲と知識の不活動による解決
無自制の対象範囲についての問いを提示した上で、知識や思い込みを持ちながら悪を行ってしまう困難に対し、「知識の保持」と「知識の不使用」の区別、および三段論法における「普遍」と「個別」の区別、さらに酔った状態の比喩を導入して解決を導く。
- §2.6.18-2.6.25
身体的快楽と怒りにおける無自制の違い
自制と無自制が正しく機能する条件について論じ、無自制が本質的に身体的快楽に関するものであることを明らかにする。また、怒りによる無自制が快楽による無自制とどのように異なるかを、召使いの例えを用いて説明する。
- §2.6.26-2.6.35
無自制の諸概念との区別と放縦に対する優位
怒りより快楽に関する無自制が非難される理由を論じ、自制、忍耐、軟弱、放縦、無自制の各概念の相違を明らかにする。また、無自制な人は健全な理(出発点)を保持しているため放縦な人よりも優れていること、そして無自制には衝動的と虚弱的の二種類があることを説明する。
- §2.6.36-2.6.44
無自制の類型と思慮ある人の自制
あらかじめ理を用いて感情に備える急進的無自制と、知りつつ快楽に屈する軟弱な無自制の違いを論じ、さらに節制と自制、放縦と無自制の論理的関係を整理する。本性的な放縦は習慣による無自制よりも治療困難であること、そして実践能力を備えた思慮深い人は決して無自制になりえないことを示す。
- §2.7.1-2.7.8
快楽の必要性と生成ではなく活動であること
快楽が幸福に不可欠であることを説明し、快楽を善ではないとする反対者の複数の論拠を挙げる。そのうち、「快楽は生成(過程)であるため不完全であり、善ではありえない」という第1の論拠に対し、感覚や思考の快楽は欠乏なしに生じるものであって生成ではないことを示し、さらに一般的な快楽の本質は生成ではなく魂の活動(エネルゲイア)であることを明らかにして反論する。
- §2.7.9-2.7.15
快楽が回復ではないことと類的に善であること
快楽が生成や回復ではないことを再び論証し、快楽が善のあらゆる範疇に付随することから、快楽そのものが類的に善であることを示す。
- §2.7.16-2.7.23
本性の回復としての快楽と活動を促す快楽
快楽は個別の本性の回復過程、あるいは安定した状態の活動であり、肉体的な補充よりも精神的な活動に伴う快楽が優れている。また、快楽は行為の妨げであるという反論に対し、行為自体から生じる快楽は活動をむしろ促進し、自発的で優れた行為を可能にすると論じる。
- §2.7.24-2.7.30
徳における快楽の不可欠性と情念という徳の始原
徳の実践における快楽の不可欠性を証明し、さらに徳の始原がロゴス(理性)ではなく、良好な状態にあるパトス(情念)であることを論じる。
- §2.8.1-2.8.12
幸運の本質と幸福におけるその役割
著者は幸福と幸運(および運)の関係性を検討し、運は自然、知性、神の配慮のいずれでもなく、非理性的な内的衝動から生じる自然なものであると定義する。そして、幸運には衝動を伴うものと付帯的なものの二種類があり、前者が幸福の外的条件に深く関わる協力者であることを論じる。
- §2.9.1-2.9.5
徳の総括としての善美と善美な人の定義
運についての議論を終え、徳の総括として「善美(カロカガティア)」の概念を導入する。善美なる人とは、端的に善いものが自分にとっても善いものであるような人のことであると定義される。
- §2.10.1-2.10.7
正しい理に従うことと徳の活動としての幸福
「正しい理に従って行うこと」を、魂の非理性的部分が理性的部分の働きを妨げない状態として定義する。また、倫理的知識は状態をもたらすにすぎず、幸福はそれを実際に活動(使用)することにあると説く。
- §2.11.1-2.11.12
友情の成立条件と相互の愛および愛されるもの
友情(親愛)についての議論を開始し、似た者同士または反対の者同士の間に生じるのかという疑問を提示する。友情が互いに愛し合う関係でのみ成立することを画定した上で、「愛されるべきもの」と「愛すべきもの」を区別し、優れた人と劣った人の間にも快や有益さを通じて友情が成立しうることを示す。
- §2.11.13-2.11.23
三種類の友情の派生関係とその安定性
著者(アリストテレス)は、善、快、有益に基づく友情が、完全な友情という同一の源泉から派生していることを「医学的」という言葉を例に説明し、それぞれの友情の安定性と消滅の理由について論じる。
- §2.11.24-2.11.32
友情の種類による期待の違いと不和の原因
快や有益に基づく友情を徳に基づく優れた友情と混同することの不当性を指摘し、優れた人々が共に生きるためには互いに快い存在であることが不可欠だと論じる。また、不対等な者同士や相反するものの間に生じる有益に基づく友情の仕組み、および友情における不和が不均衡な行為から生じることを説明する。
- §2.11.33-2.11.44
愛することの優位と自己への友情
異なる目的による友情では不和が生じやすいこと、また愛されることよりも愛すること、認識されることよりも認識することが優れていることを論じる。さらに、他者への善意や自己への友情と、完全な友情との関係について考察する。
- §2.11.45-2.11.53
正義と友情の対応関係と魂の調和に基づく自己愛
正義と友情の種類の対応関係、および異邦人間の友情の強固さについて論じた後、自分自身に対する友情の存否を魂の諸部分の調和(特に優れた人における調和)から説明する。さらに、平等な友情と、比率に応じた不平等な友情(親子や夫婦など)の区別を提示する。
- §2.12.1-2.12.13
肉親の情愛と好意および同心の性質
家族における、特に父親の息子に対する愛情の優越を「作品に対する制作者の活動」として説明する。また、友情のバリエーションである「好意」と「一致(同心)」の本質を考察し、それらが実践的な意志や同一の目的の共有に基づくことを明らかにする。
- §2.13.1-2.13.4
優れた人と劣った人の自己愛と高貴さの追求
自己自身に対する友情を背景に、優れた人と劣った人のどちらが自己愛者であるかを論じる。優れた人は他人のために行動し、有益なものは譲るが、高貴なものだけは譲らないため、高貴なものに関する選択においてのみ自己愛者となる。
- §2.14.1-2.14.3
高貴さを求める優れた人の自己愛と劣った人の自己愛
優れた人が自分を最も愛するのかという問いに対し、有益なものは友人に譲る一方で高貴なものは自分自身に獲得するため、二つの異なる意味で愛しているのだと説明する。これに対し、劣った人は真の高貴さなしに自分自身を愛するため、本来の意味の「自己愛者」と呼ばれる。
- §2.15.1-2.15.9
自足的な人における友人の必要性と自己認識
自足的な人に友人が必要かという問題を巡り、神との不適切な類比を退けた上で、自己認識における鏡としての友人の必要性や、善行・共同生活を営む上での必要性を論じる。
- §2.16.1-2.16.3
持つべき友人の適正な数と能力の限界
著者は、獲得すべき友人の数について議論し、人間の有限な本性や感情の配分、そして他者の不幸に伴う悲しみを考慮すると、友人は多すぎても少なすぎてもならず、適度な数であるべきだと主張する。
- §2.17.1-2.17.2
対等な友愛における不満と相互の要求
友人との付き合い方を検討するにあたり、非難や不満が生じるのは父親と息子のような不対等な友愛ではなく、対等な友人同士の友愛における相互の等価な要求からであることを論じる。
