§8.4#2ἐπεὶ δὲ τὸ
δυνάμει πλεοναχῶς λέγεται, τοῦτʼ σιτίον τοῦ μὴ φανερὸν εἶ. ναι ὑπὸ τίνος τὰ τοιαῦτα κινεῖται, οἶον τὸ πῦρ ἄνω καὶ ἡ γῆ κάτω.
「可能的に」ということが多様に言われるため、これが、そのようなもの、たとえば火が上へ、土が下へと動くのが、何によって動かされるのかが明らかでないことの原因である。
ἔστι δὲ δυνάμει ἄλλως ὁ μανθάνων ἐπιστήμων καὶ ὁ ἔχων ἤδη καὶ μὴ ἐνεργῶν.
学びつつある者が可能的に知識を持っているのと、すでに持っていながら現実活動していない者がそうであるのとは、異なる仕方においてである。
ἀεὶ δʼ, ὅταν ἄμα τὸ ποιητικὸν καὶ τὸ παθητικὸν ὦσιν, γίγνεται ἐνεργείᾳ τὸ δυνότον, οἶον τὸ μανθάνον ἐκ δυνάμει ὄντος ἕτερον γίγνεται δυνάμει (ὁ γὰρ ἔχων ἐπιστήμην μὴ θεωρῶν δὲ δυνάμει ἐστὶν ἐπιστήμων πως, ἀλλʼ οὐχ ὡς καὶ πρὶν.
そして常に、能動的なものと受動的なものが同時に存在するとき、可能なものは現実活動において存在するようになる。 たとえば、学びつつあるものは、一方の可能的に存在する状態から、別の可能的に存在する状態へと移行する(なぜなら、知識を持ちつつも観照していない者は、ある意味で可能的に知者であるが、学ぶ前と同じ意味ではないからである)。
μαθεῖν), ὅταν δʼ οῦτως ἔχη, ἐάν τι μὴ κωλύῃ, ἐνεργεῖ καὶ θεωρεῖ, ἢ ἔσται ἐν τῇ ἀντιφάσει καὶ ἐν ἀγνοίᾳ.
しかし、このような状態にあるとき、もし何ものも妨げないならば、それは現実活動して観照する。 さもなければ、それは矛盾した状態や無知のうちにあることになる。
ὁμοίως δὲ ταῦτʼ ἔχει καὶ ἐπὶ τῶν φυσικῶν·
同様のことは自然的なものについても当てはまる。
τὸ γὰρ ψυχρὸν δυνάμει θερμόν, ὅταν δὲ μεταβαίη, ἤδη πῦρ, καίει δέ, ἂν μή τι κωλύῃ καὶ ἐμποδίζῃ.
冷たいものは可能的に熱いものであり、変化するときにはすでに火であり、何ものも妨げ阻まない限り、燃焼する。
ὁμοίως δʼ ἔχει καὶ περὶ τὸ βαρὺ καὶ κοῦφον·
また重いものと軽いものについても同様である。
τὸ γὰρ κοῦφον γίγνεται ἐκ βαρέος, οἷον ἐξ ὕδατος ἀήρ (τοῦτο γὰρ δυνάμει πρῶτον, καὶ ἤδη κοῦφον, καὶ ἐνεργήσει γʼ εὐθύς, ἂν μή τι κωλύῃ.
軽いものは重いものから生じる。 たとえば水から空気が生じる(というのも、これは最初は可能的に軽いものであり、すでに軽いものであって、何ものも妨げないなら、直ちに現実活動するからである)。
ἐνέργεια δὲ τοῦ κούφου τὸ ποὺ εἶναι καὶ ἄνω, κωλύεται δʼ, ὅταν ἐν τῷ ἐναντίῳ τόπῳ ᾖ.
軽いものの現実活動とは、どこか、すなわち上にあることであり、それが反対の場所にあるときには妨げられている。
καὶ τοῦθʼ ὁμοίως ἔχει καὶ ἐπὶ τοῦ ποσοῦ καὶ ἐπὶ τοῦ ποιοῦ.
そしてこのことは、量についても質についても同様である。
καίτοι τοῦτο ζητεῖται,
διὰ τί ποτε κινεῖται εἰς τὸν αὑτῶν τόπον τὰ κοῦφα καὶ τὰ βαρέα.
しかし、まさにこのこと、なぜ軽いものや重いものが自分たちの本来の場所へと運動するのか、ということが探究される。
σἴτιον δʼ ὅτι πέφυκέν ποι, καὶ τοῦτʼ ἔστιν τὸ κούφῳ καὶ βαρεῖ εἶναι, τὸ μὲν τῷ ἄνω τὸ δὲ τῷ κάτω διωρισμένον.
その原因は、それらがある場所へ行くように生まれついているということであり、これこそが、軽いこと、重いことの本質(存在)にほかならない。 一方は上によって、他方は下によって規定されているのである。
δυνάμει δʼ ἐστὶν κοῦφον καὶ βαρὺ πολλαχῶς, ὥσπερ εἴρηται·
しかし、すでに述べられたように、可能的に軽い、あるいは重いということは、多様な意味においてである。
ὅταν τε γὰρ ὕδωρ, δυνάμει γέ πώς ἐστι κοῦφον, καὶ ὅταν ἀήρ, ἔστιν ὡς ἔτι δυνάμει (ἐνδέχεται γὰρ ἐμποδιζόμενον μὴ ἄνω εἶναι)·
というのも、水であるとき、それはある意味で可能的に軽いのであり、空気であるときにも、さらにある意味で可能的に軽い(なぜなら、妨げられているときには、上方にいないことがありうるからである)。
ἀλλʼ ἐὰν ἀφαιρεθῇ τὸ ἐμποδίζον, ἐνεργεῖ καὶ ἀεὶ ἀνωτέρω γίγνεται.
しかし、もし阻んでいるものが取り除かれるならば、それは現実活動し、常にさらに上方へと至る。
ὁμοίως δὲ καὶ τὸ ποιὸν εἰς τὸ ἐνεργείᾳ εἶναι μεταβάλλει·
同様に質的なものも現実存在へと変化する。
εὐθὺς γὰρ θεωρεῖ τὸ ἐπιστῆμον, ἐὰν μή τι κωλύῃ· καὶ τὸ ποσὸν ἐκτείνεται, ἐὰν μή τι κωλύῃ.
すなわち、知識を持つものは何ものも妨げないなら直ちに観照し、量的なものは何ものも妨げないなら伸長する。
ὁ δὲ τὸ ὑφιστάμενον καὶ κωλῦον κινήσας ἔστιν ὡς κινεῖ ἔστι δʼ ὡς οὔ, οἷον ὁ τὸν κίονα ὑποσπάσας ἢ ὁ τὸν λίθον ἀφελὼν ἀπὸ τοῦ ἀσκοῦ ἐν τῷ ὕδατι·
また、下で支えているものや妨げているものを動かした者は、ある意味では動かしているが、ある意味ではそうではない。 たとえば、柱を引き抜いた者や、水中にある皮袋から石を取り去った者がそうである。
κατὰ συμβεβηκὸς γὰρ κινεῖ, ὥσπερ καὶ ἡ ἀνακλασθεῖσα σφαῖρα οὐχ ὑπὸ τοῦ τοίχου ἐκινήθη ἀλλʼ ὑπὸ τοῦ βάλλοντος.
なぜなら、彼は付帯的に動かしているからである。 それはちょうど、跳ね返ったボールが壁によってではなく、投げた者によって動かされたのと同じである。
ὅτι μὲν τοίνυν οὐδὲν τούτων αὐτὸ κινεῖ ἑαυτό, δῆλον·
したがって、これらのうちのいずれも自身を動かすのではないということは明らかである。
ἀλλὰ κινήσεως ἀρχὴν ἔχει, οὐ τοῦ κινεῖν οὐδὲ τοῦ ποιεῖν, ἀλλὰ τοῦ πάσχειν.
そうではなく、それらは運動の原理を持っているが、それは動かすことや能動的に働くことの原理ではなく、受動的に作用を受けることの原理なのである。
εἰ δὴ πάντα τὰ κινούμενα ἢ φύσει κινεῖται ἢ παρὰ φύσιν καὶ βίᾳ, καὶ τά τε βίᾳ καὶ παρὰ φύσιν πάντα ὑπό τινος καὶ ὑπʼ ἄλλου, τῶν δὲ φύσει πάλιν τά θʼ ὑφ’ αὑτῶν κινούμενα ὑπό τινος κινεῖται καὶ τὰ μὴ ὑφʼ αὑτῶν, οἷον τὰ κοῦφα καὶ τὰ βαρέα (ἢ γὰρ ὑπὸ τοῦ γεννήσαντος καὶ ποιήσαντος κοῦφον ἢ βαρύ, ἢ ὑπὸ τοῦ τὰ ἐμποδίζοντα καὶ κωλύοντα λύσαντος), ἅπόντα ἂν τὰ κινούμενα ὑπό τινος κινοῖτο.
したがって、もし動かされるものすべてが、自然によって動くか、あるいは自然に反してかつ強制によって動くのであり、また強制および自然に反して動くものはすべて、何ものかによって、すなわち他者によって動かされ、また自然によって動くもののうちでも、自身によって動くものも何ものかによって動かされており、自身からは動かないもの、たとえば軽いものや重いものもそうであるなら(なぜなら、それらは、それらを生成し、軽いものや重いものにしたものによって動かされるか、あるいは障害や妨げとなるものを取り除いたものによって動かされるからである)、動かされるすべてのものは、何ものかによって動かされていることになるだろう。