§3.2Ὅτι δὲ καλῶς εἴρηται, δῆλον καὶ ἐξ ὧν οἱ ἄλλοι περὶ αὐτῆς λέγουσιν, καὶ ἐκ τοῦ μὴ ῥάδιον εἶναι διορίσαι ἄλλως αὐτήν.
私たちの定義がうまく語られていることは、他の人々がそれについて述べていることからも、また、それを他のやり方で規定することが容易ではないことからも明らかである。
οὔτε γὰρ τὴν κίνησιν καὶ τὴν μεταβολὴν ἐν ἄλλῳ γένει θεῖναι δύναιτʼ ἄν τις, δῆλόν τε σκοποῦσιν ὡς τιθέασιν αὐτὴν ἔνιοι, ἑτερότητα καὶ ἀνισότητα καὶ τὸ μὴ ὄν φάσκοντες εἶναι τὴν κίνησιν·
なぜなら、運動や変化を他の類に分類することは誰にもできないであろうし、一部の人々がどのように運動を置いているかを検討する者にとっても[私たちの正しさは]明らかである。
ὦν οὐδὲν ἀναγκαῖον κινεῖσθαι, οὔτʼ ἂν ἕτερα ᾖ οὔτʼ ἂν ἄνισα οὔτʼ ἂν οὐκ ὄντα·
彼らは運動を「他者性」や「不等性」や「非存在」であると主張しているが、これら[他なるもの、等しくないもの、存在しないもの]のうち、たとえ他なるものであっても、等しくないものであっても、存在しないものであっても、いかなるものも運動することは必然ではない。
ἀλλʼ οὐδʼ ἡ μεταβολὴ οὔτʼ εἰς ταῦτα οὔτʼ ἐκ τούτων μᾶλλόν ἐστιν ἢ ἐκ τῶν ἀντικειμένων.
そればかりか、変化は、これらのものへと向かうものでも、これらのものから生じるものでもなく、それらの対立物から生じるものと変わらない。
σἴτιον δὲ τοῦ εἰς ταῦτα τιθέναι ὅτι ἀόριστόν τι δοκεῖ εἶναι ἡ κίνησις, τῆς δὲ ἑτέρας συστοιχίας αἱ ἀρχαὶ διὰ τὸ στερητικαὶ εἶναι ἀόριστοι·
彼らが運動をこれら[のカテゴリ]に置く原因は、運動が何か不定なものであると思われるからであり、また、もう一方の系列の諸原理は、欠如的であるために不定だからである。
οὔτε γὰρ τόδε οὔτε τοιόνδε οὐδεμία αὐτῶν ἐστιν, οὐδὲ τῶν ἄλλων κατηγοριῶν.
なぜなら、それらの原理のどれも「これ(個物)」でも「このようなもの(性質)」でもなく、他のいかなる範疇のどれでもないからである。
τοῦ δὲ δοκεῖν ἀόριστον εἶναι τὴν κίνησιν σἴτιον ὅτι οὔτε εἰς δύναμιν τῶν ὄντων οὔτε εἰς ἐνέργειαν ἔστιν θεῖναι αὐτήν·
運動が不定であると思われる原因は、それを存在するものの可能性(可能態)にも現実活動(現実態)にも置くことができないことにある。
οὔτε γὰρ τὸ δυνατὸν ποσὸν εἶναι κινεῖται ἐξ ἀνάγκης οὔτε τὸ ἐνεργείᾳ ποσόν, ῆ τε κίνησις ἐνέργεια μὲν εἶναί τις δοκεῖ, ἀτελὴς δέ·
なぜなら、可能的に量であるものが必然的に運動するわけでもなく、現実に量であるものが運動するわけでもないからである。 そして、運動はある種の現実活動であると思われるが、不完全なものである。
αἴτιον δʼ ὅτι ἀτελὲς τὸ δυνατόν, οὗ ἐστιν ἐνέργεια.
その原因は、運動がそれの現実活動であるところの可能的なものが、不完全だからである。
καὶ διὰ τοῦτο δὴ χαλεπὸν αὐτὴν λαβεῖν τί ἐστιν·
そしてまさにこのために、運動が何であるかを把握することは困難なのである。
ἢ γὰρ εἰς στέρησιν ἀναγκαῖον θεῖναι ἢ εἰς δύναμιν ἢ εἰς ἐνέργειαν ἀπλῆν, τούτων δʼ οὐδὲν φαίνεται ἐνδεχόμενον.
というのも、それを欠如に置くか、可能性に置くか、あるいは単純な現実活動に置くかのいずれかが必然であるが、これらのどれも不可能と思われるからである。
λείπεται τοίνυν ὁ εἰρημένος τρόπος, ἐνέργειαν μέν τινα εἶναι, τοιαύτην δʼ ἐνέργειαν οἵαν εἴπαμεν, χαλεπὴν μὲν ἰδεῖν, ἐνδεχομένην δʼ εἶναι.
したがって、残されているのはすでに述べた方法、すなわち、ある種の現実活動ではあるが、私たちが述べたような現実活動であり、見ることは困難ではあるが、存在することは可能であるようなもの[としての運動]である。
κινεῖται δὲ καὶ τὸ κινοῦν ὥσπερ εἴρηται πᾶν, τὸ
δυνάμει ὄν κινητόν, καὶ οὖ ἡ ἀκινησία ἠρεμία ἐστίν (ᾦ γὰρ ἡ κίνησις ὑπάρχει, τούτου ἡ ἀκινησία ἠρεμία).
ところで、すでに述べられたように、運動を惹き起こすものもまた、それが可能的に運動可能であるものであるならば、すべて運動するのであり、その不動が静止であるようなものもそうである(なぜなら、運動が属するようなもの、それの不動こそが静止だからである)。
τὸ γὰρ πρὸς τοῦτο ἐνεργεῖν, ᾖ τοιοῦτον, αὐτὸ τὸ κινεῖν ἐστι·
というのも、この[運動可能な]ものに対して、それがそのようなものである限りにおいて活動することが、まさに運動を惹き起こすことだからである。
τοῦτο δὲ ποιεῖ θίξει, ὥστε ἅμα καὶ πάσχει·
そして、運動惹起者は接触によってこれを行うので、同時に自らも作用を受ける。
διὸ ἡ κίνησις ἐντελέχεια τοῦ κινητοῦ, ᾖ κινητόν, συμβαίνει δὲ τοῦτο θίξει τοῦ κινητικοῦ, ὥσθ’ ἅμα καὶ πάσχει.
それゆえに、運動は運動可能者の運動可能者である限りにおける完全性であるが、これは運動を惹き起こすものに接触することによって起こり、その結果、[運動惹き起こすものも]同時に作用を受ける。
εἶδος δὲ ἀεὶ οἴσεταί τι τὸ κινοῦν, ἤτοι τόδε ἢ τοιόνδε ἢ τοσόνδε, ὅ ἔσται ἀρχὴ καὶ αἴτιον τῆς κινήσεως, ὅταν κινῇ, οἶον ὁ ἐντελεχείᾳ ἄνθρωπος ποιεῖ ἐκ τοῦ δυνάμει ὄντος ἀνθρώπου ἄνθρωπον.
そして、運動を惹き起こすものは常に何らかの形相、すなわち「これ(実体)」か「このようなもの(性質)」か「これほど(量)」をもたらすのであり、これが、運動を惹き起こすとき、運動の原理および原因となる。 例えば、現実に人間であるものが、可能的に人間であるものから人間を作り出すように。