底本
Tertullian. Quinti Septimii Florentis Tertulliani Quae Supersunt Omnia, Volume 1. Oehler, Franz, editor. Leipzig: Weigel, 1853.
原文データ出典
Perseus Digital Library · CC BY-SA 4.0
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要旨
本作は、軍隊で月桂冠の着用を拒否して逮捕されたキリスト教徒兵士の事件を契機に、キリスト者が世俗の冠を着用することの是非と、教会の伝承および規律の権威を論じた神学論考です。著者はまず、聖書に明文規定がなくても、聖餐や洗礼のように伝承と慣習に基づき守られるべき重要な教会慣行が存在することを指摘します。その上で、頭部に冠を戴く行為は神が定めた自然の秩序に反しており、その起源も異教の偶像崇拝や神話に由来するものであると論証します。さらに議論は、軍務への従事そのものの是非や、公的行事・婚礼といった世俗的慣習に潜む偶像崇拝の危険性へと及びます。最終的に著者は、信徒に対して世俗の華美な花冠を拒み、キリストの茨の冠や天上の朽ちない冠を求めるよう強く促し、徹底した信仰の姿勢を求めます。
目次
10 チャンク
引用方式:chapter
- §1-2
冠の着用を拒否した兵士と教会の伝統
軍隊で月桂冠の着用を拒否して逮捕されたキリスト教徒の兵士の逸話を紹介し、聖書に明示的に許容されていない慣習に従うことを禁じる教会の規律と伝統の権威について論じ始める。
- §3-4
成文の根拠なき教会慣行と伝承の権威
著者は、成文による根拠がない教会慣行(洗礼の儀礼、聖餐、死者の記念など)であっても伝承と慣習に基づき守られるべき先例を多数挙げ、理性が推奨するものであれば未成文であっても法(規律)として効力を有すると論じる。
- §5-6
自然の法と感覚器官の目的による冠の否定
テルトゥリアヌスは、キリスト教徒が冠を被らないことはすべての人類の最初の規律である自然に合致していると論じ、感覚器官の目的からその理由を説明する。さらに、使徒パウロが自然の法に訴えていることを例示し、被造物の正しい用い方を強調する。
- §7
異教神話と偶像崇拝に見る冠の起源
著者はキリスト教徒に冠を禁じる更なる論拠を示すため、世俗の神話や歴史に言及し、冠の起源が神話の虚偽や神格化された人間(偶像)に由来することを明らかにする。
- §8-9
有用な道具と冠の区別および聖書の用例
世俗の神々が発明した道具のすべてを拒否するのではなく、生活に必要なものと不必要なものを区別すべきであり、聖書には神に属する者や神殿が冠で飾られた例はないと主張する。
- §10
死者と神々への冠の奉納と偶像崇拝の禁止
第10章において著者は、異教の神々や死者に捧げられた冠は偶像崇拝そのものであり、キリスト者には一切の妥協が許されないことを、聖書の言葉や日常の使用例の対比を用いて論じる。また、冠を使用する具体的理由についての検証へと議論を移す。
- §11
キリスト教徒の兵役の不法性と冠の問題
著者は、キリスト教徒が軍務に従事すること(兵役)がキリスト教の教義や戒律と相容れないことを多角的な問いかけを通じて論じ、軍務そのものの不法性を指摘した上で、仮に軍務が許されるとしても冠の問題が残ることを示す。
- §12
軍人の冠の異教的起源と偶像崇拝
テルトゥリアヌスは軍人の冠が異教の神々に捧げられた歴史的起源を持つことを指摘し、誓いの宣誓や恩賞分配、凱旋式などの世俗的行事において冠を戴くことが背教と偶像崇拝に等しいことを論じる。
- §13
公職や世俗の冠とキリスト教徒の天の市民権
テルトゥリアヌスは、公的職務、市民的行事、婚礼、奴隷解放、競技会など様々な世俗的慣習で用いられる冠が偶像崇拝にまみれていることを指摘し、キリスト教徒の真の市民権は天にあることを強調する。
- §14-15
頭の神聖さとキリストの冠およびミトラス教の例
テルトゥリアヌスは、男の頭であるキリストと覆いを被るべき女の頭の神聖さを強調し、世俗の華美な花冠を拒んでキリストの茨の冠や天上の不朽の冠を求めるよう説く。さらに、ミトラス教の兵士が世俗の冠を峻拒する儀式を引き合いに出し、キリスト教徒の不徹底を叱責する。
