- 底本
- Aristotle. Aristotelis Opera, Volume 1. Bekker, Immanuel, editor (Academia Regia Borussica). Berlin: Reimer, 1831. Transcribed by Humanitext from the page images.
- 翻訳
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- 言語
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- CTS URN
- urn:cts:greekLit:tlg0086.tlg042.humanitext-grc1:1#2
- 出力
- Humanitext Reader · reader.humanitext.ai · 2026-10-27
アリストテレスは、いかなる動物も常に目覚めている、あるいは常に眠っていることは不可能であることを、感覚能力の限界や対立物の関係から論証する。また、植物には知覚がないため睡眠も覚醒もなく、ほぼすべての動物が睡眠を共有していることを示す。
οὐκ ἐνδέχεται δὲ οὐδὲ θάτερον τούτων ἀεὶ ὑπάρχειν τῷ αὐτῷ, οἷον ἀεί τι γένος ζῴων καθεύδειν ἢ ἀεί τι ἐγρηγορέναι. ἔτι ὅσων ἐστί τι ἔργον κατὰ φύσιν, ὅταν ὑπερβάλλῃ τὸν χρόνον ᾧ δύναται χρόνῳ τι ποιεῖν, ἀνάγκη ἀδυνατεῖν, οἷον τὰ ὄμματα ὁρῶντα καὶ παύεσθαι τοῦτο ποιοῦντα, ὁμοίως δὲ καὶ χεῖρα καὶ ἄλλο πᾶν οὗ ἐστί τι ἔργον. εἰ δή τινός ἐστιν ἔργον τὸ αἰσθάνεσθαι, καὶ τοῦτο ἂν ὑπερβάλλῃ ὅσον ἦν χρόνον δυνάμενον αἰσθάνεσθαι συνεχῶς, ἀδυνατήσει καὶ οὐκέτι τοῦτο ποιήσει. εἰ τοίνυν τὸ ἐγρηγορέναι ὥρισται τῷ λελύσθαι τὴν αἴσθησιν,1 τῶν δ᾽ ἐναντίων τὸ μὲν ἀνάγκη παρεῖναι τὸ δ᾽ οὔ,2 τὸ δ᾽ ἐγρηγορέναι τῷ καθεύδειν ἐναντίον, καὶ ἀναγκαῖον παντὶ θάτερον ὑπάρχειν, ἀναγκαῖον ἂν εἴη καθεύδειν. εἰ οὖν τὸ τοιοῦτον πάθος ὕπνος, τοῦτο δ᾽ ἐστὶν ἀδυναμία δι᾽ ὑπερβολὴν τοῦ ἐγρηγορέναι, ἡ δὲ τοῦ ἐγρηγορέναι ὑπερβολὴ ὁτὲ μὲν νοσώδης ὁτὲ δ᾽ ἄνευ νόσου γίνεται, ὥστε καὶ ἡ ἀδυναμία καὶ ἡ διάλυσις ὡσαύτως ἔσται, ἀνάγκη πᾶν τὸ ἐγρηγορὸς ἐνδέχεσθαι καθεύδειν· ἀδύνατον γὰρ ἀεὶ ἐνεργεῖν. ὁμοίως δὲ οὐδὲ καθεύδειν οὐδὲν ἀεὶ ἐνδέχεται. ὁ γὰρ ὕπνος τι τοῦ αἰσθητικοῦ μορίου ἐστίν, οἷον δεσμὸς καὶ ἀκινησία τις, ὥστ᾽ ἀνάγκη πᾶν τὸ καθεῦδον ἔχειν τὸ αἰσθητικὸν μόριον. αἰσθητικὸν δὲ τὸ δυνατὸν αἰσθάνεσθαι κατ᾽ ἐνέργειαν· ἐνεργεῖν δὲ τῇ αἰσθήσει κυρίως καὶ ἁπλῶς ἀδύνατον καθεῦδον ἅμα· διὸ ἀναγκαῖον ὕπνον πάντα ἐγερτὸν εἶναι. τὰ μὲν οὖν ἄλλα σχεδὸν πάντα δῆλα κοινωνοῦνθ᾽ ὕπνου, καὶ πλωτὰ καὶ πτηνὰ καὶ πεζά· καὶ γὰρ τὰ τῶν ἰχθύων γένη πάντα καὶ τὰ τῶν μαλακίων ὦπται καθεύδοντα, καὶ τἆλλα πάνθ᾽ ὅσαπερ ἔχει ὀφθαλμούς· καὶ γὰρ τὰ σκληρόφθαλμα φανερὰ καὶ τὰ ἔντομα κοιμώμενα· βραχύυπνα δὲ τὰ τοιαῦτα πάντα, διὸ καὶ λάθοι ἄν τινα πολλάκις πότερον μετέχουσι τοῦ καθεύδειν ἢ οὔ. τῶν δ᾽ ὀστρακοδέρμων κατὰ μὲν τὴν αἴσθησιν οὐδέ πω γέγονε φανερὸν εἰ καθεύδουσιν· εἰ δέ τῳ πιθανὸς ὁ λεχθεὶς λόγος, τούτῳ πεισθήσεται.3 ὅτι μὲν οὖν ὕπνου κοινωνεῖ τὰ ζῷα πάντα, φανερὸν ἐκ τούτων· τῷ γὰρ αἴσθησιν ἔχειν ὥρισται τὸ ζῷον, τῆς δ᾽ αἰσθήσεως τρόπον τινὰ τὴν μὲν ἀκινησίαν καὶ οἷον δεσμὸν τὸν ὕπνον εἶναί φαμεν, τὴν δὲ λύσιν καὶ τὴν ἄνεσιν ἐγρήγορσιν. τῶν δὲ φυτῶν οὐδὲν οἷόν τε κοινωνεῖν οὐδετέρου τούτων τῶν παθημάτων. ἄνευ μὲν γὰρ αἰσθήσεως οὐχ ὑπάρχει οὔθ᾽ ὕπνος οὔτ᾽ ἐγρήγορσις· οἷς δ᾽ αἴσθησις ὑπάρχει, καὶ τὸ λυπεῖσθαι καὶ τὸ χαίρειν· οἷς δὲ ταῦτα, καὶ ἐπιθυμία. τοῖς δὲ φυτοῖς οὐδὲν ὑπάρχει τούτων. σημεῖον δ᾽ ὅτι καὶ τὸ ἔργον τὸ αὑτοῦ ποιεῖ τὸ θρεπτικὸν μόριον ἐν τῷ καθεύδειν μᾶλλον ἢ ἐν τῷ ἐγρηγορέναι· τρέφεται γὰρ καὶ αὐξάνεται τότε μᾶλλον, ὡς οὐδὲν προσδεόμενα πρὸς ταῦτα τῆς αἰσθήσεως.
しかし、これらの一方が同じものに常に備わっていることもまたあり得ない。例えば、ある種の動物が常に眠っているとか、常に目覚めているということはあり得ない。さらに、自然に従った何らかの機能を持つすべてのものにおいて、何かをなし得る時間を超えたときには、無力になることが必然である。例えば、目は見ることによって無力になり、この活動を停止する。同様に、手や、何らかの機能を持つ他のすべてのものも同様である。もし、知覚することがあるものの機能であり、これが、継続的に知覚することができた時間を超えるならば、それは無力になり、もはやこれを行わないだろう。それゆえ、もし目覚めていることが、知覚が解き放たれていることによって定義され、対立するもののうち一方が存在することは必然であり他方は存在せず、目覚めていることと眠っていることは対立しており、すべての動物にその一方が備わることが必然であるなら、眠ることが必然であるだろう。したがって、もしこのような状態が睡眠であり、これが目覚めていることの過度による無力であるなら、そして目覚めていることの過度は、ある時は病気によって、ある時は病気なしに生じるので、無力やその解除も同様に生じるであろうから、目覚めているすべてのものが眠り得ることが必然である。なぜなら、常に活動することは不可能だからである。同様に、何ものも常に眠っていることはあり得ない。なぜなら、睡眠は知覚部分のある種の状態であり、いわば一種の束縛であり不動化だからである。したがって、眠っているすべてのものは知覚部分を持っていなければならない。そして知覚的とは、現実態において知覚することができるもののことである。しかし、眠っていると同時に、本来の意味で、かつ端的に知覚の活動を行うことは不可能である。それゆえ、すべての睡眠は目覚めさせられ得るものであることが必然である。したがって、他のほぼすべての動物、すなわち泳ぐもの、飛ぶもの、歩くものが睡眠を共有していることは明らかである。実際、魚類のすべての種類や軟体動物も眠っているのが観察されており、その他、目を持つすべてのものがそうである。硬い目のものや昆虫も眠ることが明らかである。しかし、これらすべてのものは睡眠が短く、そのため、それらが眠りを共有しているかどうか、しばしば多くの人に見過ごされることがある。一方、貝類については、観察によっては、それらが眠るかどうかはまだ明らかになっていない。しかし、もし誰かに上記の議論が説得力を持つならば、その人は納得するであろう。したがって、すべての動物が睡眠を共有していることは、これらのことから明らかである。なぜなら、動物は知覚を持つことによって定義され、知覚の、ある意味での不動化と一種の束縛を私たちは睡眠と呼び、その解放と弛緩を覚醒と呼ぶからである。しかし、植物はこれら二つの状態のいずれをも共有することはできない。なぜなら、知覚なしには、睡眠も覚醒も存在しないからである。そして、知覚が備わっているものには、苦痛を感じることや喜ぶことも備わっており、これらがあるものには欲求も備わっている。しかし植物には、これらのどれも備わっていない。また、栄養摂取的部分が、覚醒時よりもむしろ睡眠時において自らの機能をより多く果たすということも、その兆候である。なぜなら、動物はそのときにより多く栄養を摂取し成長するが、それはこれら(栄養摂取や成長)のために知覚を全く必要としないからである。
- 454a30τῷ λελύσθαι τὴν αἴσθησιν
「知覚が解放されていることによって」の意。完了受動不定詞 λελύσθαι(λύω の完了受動)は、睡眠中における知覚の「束縛(δεσμός)」からの解放、すなわち覚醒状態における知覚活動の自由な発現を指している。
- 454b1τῶν δ’ ἐναντίων τὸ μὲν ἀνάγκη παρεῖναι τὸ δ’ οὔ
「対立するもののうち、一方が存在することは必然であるが、他方はそうではない(存在しない)」の意。ここでの τὸ μὲν... τὸ δ' οὔ は、対立する二つの状態(覚醒と睡眠)が同時に同じ主体に存在することはできず、一方が現に存在するならば他方は存在し得ないという排他的な関係、および、一方が活動限界に達して消失すれば他方が必然的に生じるという論理的必然性を示している。
- 454b20εἰ δέ τῳ πιθανὸς ὁ λεχθεὶς λόγος, τούτῳ πεισθήσεται
「もし誰かに上記の議論が説得力を持つならば、その人はこれによって納得するであろう」の意。貝類(ὀστρακοδέρμα)が眠るかどうかは直接の観察(κατὰ τὴν αἴσθησιν)では確認できないが、感覚を持つ動物はすべて眠らなければならないという先行する普遍的論理(ὁ λεχθεὶς λόγος)を受け入れるならば、貝類もまた眠るという結論に達するはずである、というアリストテレスの論証態度を示している。
