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記憶と想起について

§2#2

想起における探索運動と時間知覚の比率

想起の探索が出発点や中間点からの運動の連鎖を通じて行われるメカニズムを、習慣が自然を形成する性質や、幾何学的比率モデルを用いた心内での時間・距離の認識プロセスと共に解説する。

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§2#2

πολλάκις δ᾽ ἤδη μὲν ἀδυνατεῖ ἀναμνησθῆναι, ζητεῖν δὲ δύναται καὶ εὑρίσκει. τοῦτο δὲ γίνεται κινοῦντι πολλά,1 ἕως ἂν τοιαύτην κινήσῃ κίνησιν ᾗ ἀκολουθήσει τὸ πρᾶγμα. τὸ γὰρ μεμνῆσθαί ἐστι τὸ ἐνεῖναι δυνάμει τὴν κινοῦσαν· τοῦτο δέ, ὥστ᾽ ἐξ αὑτοῦ καὶ ὧν ἔχει κινήσεων κινηθῆναι, ὥσπερ εἴρηται. δεῖ δὲ λαβέσθαι ἀρχῆς. διὸ ἀπὸ τόπων2 δοκοῦσιν ἀναμιμνήσκεσθαι ἐνίοτε. τὸ δ᾽ αἴτιον ὅτι ταχὺ ἀπ᾽ ἄλλου ἐπ᾽ ἄλλο ἔρχονται, οἷον ἀπὸ γάλακτος ἐπὶ λευκόν, ἀπὸ λευκοῦ δ᾽ ἐπ᾽ ἀέρα, καὶ ἀπὸ τούτου ἐφ᾽ ὑγρόν, ἀφ᾽ οὗ ἐμνήσθη3 μετοπώρου, ταύτην ἐπιζητῶν τὴν ὥραν. ἔοικε δὴ καθόλου ἀρχὴ καὶ τὸ μέσον πάντων· εἰ γὰρ μὴ πρότερον, ὅταν ἐπὶ τοῦτο ἔλθῃ, μνησθήσεται, ἢ οὐκέτ᾽ οὐδὲ ἄλλοθεν, οἷον εἴ τις νοήσειεν ἐφ᾽ ὧν ΑΒΓΔΕΖΗΘ· εἰ γὰρ μὴ ἐπὶ τοῦ Ε μέμνηται, ἐπὶ τοῦ ΕΘ ἐμνήσθη· ἐντεῦθεν γὰρ ἐπ᾽ ἄμφω κινηθῆναι ἐνδέχεται, καὶ ἐπὶ τὸ Δ καὶ ἐπὶ τὸ Ε. εἰ δὲ μὴ τούτων τι ἐπιζητεῖ, ἐπὶ τὸ Γ ἐλθὼν μνησθήσεται, εἰ τὸ Η ἢ τὸ Ζ ἐπιζητεῖ. εἰ δὲ μή, ἐπὶ τὸ Α· καὶ οὕτως ἀεί. τοῦ δ᾽ ἀπὸ τοῦ αὐτοῦ ἐνίοτε μὲν μνησθῆναι ἐνίοτε δὲ μή, αἴτιον ὅτι ἐπὶ πλείω ἐνδέχεται κινηθῆναι ἀπὸ τῆς αὐτῆς ἀρχῆς, οἷον ἀπὸ τοῦ Γ ἐπὶ τὸ Ζ ἢ τὸ Δ. ἐὰν οὖν μὴ διὰ παλαιοῦ κινῆται, ἐπὶ τὸ συνηθέστερον κινεῖται· ὥσπερ γὰρ φύσις ἤδη τὸ ἔθος. διὸ ἃ πολλάκις ἐννοοῦμεν, ταχὺ ἀναμιμνησκόμεθα· ὥσπερ γὰρ φύσει τόδε μετὰ τόδε ἐστίν, οὕτω καὶ ἐνεργείᾳ· τὸ δὲ πολλάκις φύσιν ποιεῖ. ἐπεὶ δ᾽ ὥσπερ ἐν τοῖς φύσει γίνεται, καὶ παρὰ φύσιν καὶ ἀπὸ τύχης, ἔτι μᾶλλον ἐν τοῖς δι᾽ ἔθος, οἷς ἡ φύσις γε μὴ ὁμοίως ὑπάρχει: ὥστε κινηθῆναι ἐνίοτε κἀκεῖ καὶ ἄλλως, ἄλλως τε καὶ ὅταν ἀφέλκῃ ἐκεῖθεν αὐτόσε πῃ. διὰ τοῦτο καὶ ὅταν δέῃ ὄνομα μνημονεῦσαι, παρόμοιον μέν, εἰς δ᾽ ἐκεῖνο σολοικίζομεν. τὸ μὲν οὖν ἀναμιμνήσκεσθαι τοῦτον συμβαίνει τὸν τρόπον. τὸ δὲ μέγιστον, γνωρίζειν δεῖ τὸν χρόνον, ἢ μέτρῳ ἢ ἀορίστως. ἔστω δέ τι ᾧ κρίνει τὸν πλείω καὶ ἐλάττω· εὔλογον δ᾽ ὥσπερ τὰ μεγέθη· νοεῖ γὰρ τὰ μεγάλα καὶ πόρρω οὐ τῷ ἀποτείνειν ἐκεῖ τὴν διάνοιαν, ὥσπερ τὴν ὄψιν φασί τινες (καὶ γὰρ μὴ ὄντων ὁμοίως νοήσει), ἀλλὰ τῇ ἀνάλογον κινήσει·4 ἔστι γὰρ ἐν αὐτῇ τὰ ὅμοια σχήματα καὶ κινήσεις. τίνι οὖν διοίσει, ὅταν τὰ μείζω νοῇ; ἢ ὅτι ἐκεῖνα νοεῖ, ἢ τὰ ἐλάττω; πάντα γὰρ τὰ ἐντὸς ἐλάττω, ὥσπερ ἀνάλογον καὶ τὰ ἐκτός. ἔστι δ᾽ ἴσως ὥσπερ καὶ τοῖς εἴδεσιν ἀνάλογον λαβεῖν ἄλλο ἐν αὐτῷ, οὕτω καὶ τοῖς ἀποστήμασιν. ὥσπερ οὖν εἰ τὴν Α Β Β Ε κινεῖται,5 ποιεῖ τὴν Α Δ· ἀνάλογον γὰρ ἡ Α Γ καὶ ἡ Γ Δ. τί οὖν μᾶλλον τὴν Γ Δ ἢ τὴν Ζ Η ποιεῖ; ἢ ὡς ἡ Α Γ πρὸς τὴν Α Β ἔχει, οὕτως ἡ τὸ Θ πρὸς τὴν Μ ἔχει. ταύτας οὖν ἅμα κινεῖται.

しかし、しばしば、ある人は最初は思い出すことができないが、探し求めることはでき、そして発見する。これは、その人が多くの運動を引き起こし、ついには、その後に目的の事柄が続くような、そのような運動を引き起こすときに生じる。なぜなら、記憶しているとは、動かす運動が内に可能的に存在していることだからである。そしてこれは、すでに述べられたように、自分自身から、また自分が持っている運動から動かされるような仕方で存在しているということである。しかし、出発点をつかまねばならない。それゆえ、時には手がかりから思い出すように思われるのである。その理由は、あるものから別のものへと素早く移行するからである。例えば、牛乳から白へ、白から空気へ、そして空気から湿気へ、そこから、秋という季節を探し求めて、秋を思い出すというように。実に、全体として中間もまた、すべての出発点であるように思われる。なぜなら、それ以前に思い出さないとしても、この中間に至ったときには思い出すか、あるいはもはや他のどこからも思い出さないからである。例えば、A B Γ Δ Ε Ζ Η Θ という文字で表される系列を考える。もしΕ において思い出さないとしても、Ε Θ において思い出す。なぜなら、そこからは両方向、すなわち Δ へも Ε へも動くことが可能だからである。もしこれらのいずれをも求めているのでなければ、Γ に達したときに思い出すだろう ―― もし Η や Ζ を求めているのであれば。そうでなければ、Α に達したときに。そして常にこのように続く。同じ出発点から出発しながら、時には思い出し、時には思い出さないことの原因は、同じ出発点から複数の方向へと動くことがあり得るからである。例えば、Γ から Ζ へも Δ へも動き得るように。したがって、もし古い習慣を通って動くのでなければ、よりなじみ深い方へと動く。なぜなら、習慣はすでに一種の自然だからである。それゆえ、我々がしばしば考えることは、素早く想起される。なぜなら、自然において「これの後にそれ」があるように、活動においても同様だからである。そして、「しばしば」ということが自然を作り出すのである。ところで、自然によるもののうちにおいて、自然に反することや偶然によることが起こるように、習慣によるもののうちにおいては、自然が同じようには備わっていないため、なおさらそうしたことが起こる。その結果、時にはそちらへも、また別の方向へも動かされることがあり、とりわけ、何かがそちらから別のどこかへと引き離すときにはそうである。このために、名前を思い出さねばならないとき、我々は似たような名前を思い出す一方で、その名前に対しては言い間違いをしてしまうのである。さて、想起することはこのようにして起こる。しかし、最も重要なことは、時間を、尺度によって、あるいは漠然と認識せねばならないということである。そして、より長い時間とより短い時間を判定するための何ものかが存在するとしよう。それは、大きさを判定する場合と同様であると考えるのが合理的である。なぜなら、心は、一部の人々が視覚について言うように、思考をそこまで引き伸ばすことによって、大きいものや遠くにあるものを思惟するのではないからであり(実際、それらが存在しないときでも同様に思惟するであろう)、比例的な運動によって思惟するのである。なぜなら、心自体の中に、類似した形や運動が存在するからである。では、より大きいものを思惟するとき、それは何によって区別されるのだろうか。あるいは、それらの大きいものを思惟するのか、それともより小さいものを思惟するのか。というのも、内にあるものはすべてより小さく、外にあるものもそれに対応して比例的だからである。そしておそらく、形について心自体の中にそれに対応する別のものを受け取り得るのと同様に、距離についても同様である。したがって、例えば、もし人が A B B E の運動をするなら、A Δ を作り出す。なぜなら、A Γ と Γ Δ は比例しているからである。では、なぜ Ζ Η ではなく、むしろ Γ Δ を作り出すのか。あるいは、A Γ が A B に対する比と同じように、Θ が M に対する比を持っているからである。したがって、これらを同時に行うのである。

構文注5 件
  1. 452a2κινοῦντι πολλά

    与格分詞 κινοῦντι は、先行する文脈から暗黙の主語(探求する主体)に対する与格関係、あるいは与格の独立用法であり、手段(多くの運動を引き起こすことによって)を表している。

  2. 452a10ἀπὸ τόπων

    τόπων(トポイ)は、古代の記憶術(記憶の宮殿)において、想起の手がかりとするために心の中に設定された「場所」や「位置」を指している。

  3. 452a15ἐπὶ τοῦ Ε Θ ἐμνήσθη

    この箇所はテキストの伝承および記号の指示対象に複数の学説があり解釈が分かれるが、中間点(Ε)を足がかりに目的の対象(Θ)を想起する運動をアルファベット順を用いて表している。

  4. 452b10τῇ ἀνάλογον κινήσει

    大きさと距離の認識において、心が物理的に空間を広げるのではなく、心の中にその比率に対応した「相似的(比例的)な運動」が生じるという認識論的原理を示す。

  5. 452b15τὴν Α Β Β Ε κινεῖται

    幾何学的な比例の図式。内的な運動の線分(Α Β および Β Ε)と、それに対応する外的な実際の間隔(Α Δ)の比例関係(Α Γ : Α Β = Θ : Μ など)を用いて、心の中の時間的・空間的測定モデルを構成している。

翻訳:Gemini 3.5 Flash(2026-05-22 公開)urn:cts:greekLit:tlg0086.tlg024.humanitext-grc1:2#2