底本
Platonis Opera, Tomus I: Tetralogia I-II. Burnet, John, 1863-1928, editor. Oxford: Clarendon Press, 1905.
原文データ出典
Perseus Digital Library · CC BY-SA (Perseus の利用条件による)
元ファイル: urn:cts:greekLit:tlg0059.tlg001.perseus-grc1
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翻訳と校閲
翻訳:Gemini 3.5 Flash(2026-05-22 公開)
AI校閲 2026-09-22:検出 Gemini 3.8 Flash/判定 Gemini 3.8 Flash・GPT-6 Astra — 日本語訳 6 件を修正
反映した修正(日本語訳と原文):AI校閲 6 件
最終更新:2026-10-10・変更履歴の一覧
要旨
本作は、国家を害したとして告発された哲学者ソクラテスが、裁判直前に「敬虔(ホシオン / hosiotēs)」の本質をめぐって交わした哲学対話篇である。舞台はアテナイの王の柱廊の前であり、ソクラテスは、実の父親を殺人罪で告発しようとする宗教専門家エウテュプロンと出会う。ソクラテスは、父親を告訴するほど神聖な知識に自信を持つ彼に弟子入りを志願し、「敬虔とは何か」というその本質的な定義を問いかける。エウテュプロンは「神々に愛されるもの」や「神々への奉仕」といった定義を次々と提案するが、ソクラテスは対話を通じて、それらの定義に含まれる矛盾や論理的欠陥を暴いていく。議論は進むものの、定義は堂々巡りを繰り返し、普遍的な「形相(イデア / idea)」に到達することはできない。最後は、困惑したエウテュプロンが急用を理由に立ち去り、対話は明確な結論を得られないまま幕を閉じる。
目次
12 チャンク
引用方式:section
- §2-3
メレトスによるソクラテスの告発
ソクラテスは王の柱廊の近くでエウテュプロンに出会い、メレトスという若者から「若者を堕落させ、新しい神々を作った」として告発されたことを語る。エウテュプロンは自身も予言能力のために嘲笑されると共感を示し、自身の訴訟について明かし始める。
- §4-5
父親の告発と敬虔の定義の要求
エウテュプロンは自らの父親を殺人罪で告訴していることを明かし、ソクラテスはその大胆さに驚嘆する。エウテュプロンが神聖な事柄についての知識を絶対視しているのを見たソクラテスは、彼の弟子になることを提案し、虔(敬虔)と不虔の本質的な定義を求める。
- §6
神話の事例と敬虔の共通の形相の探究
エウテュプロンは、不義を犯した者を親であっても追訴することが「虔」であると定義し、神話の先例を挙げて正当化する。ソクラテスは神話への懐疑を示し、特定の事例ではなく、すべての虔な行為を「虔」たらしめる共通の「形相(イデア)」そのものを教えるようエウテュプロンに求める。
- §7
神々に愛されるものとしての敬虔の定義と神々の不和
エウテュプロンは「神々に愛されるものが虔であり、愛されないものが不虔である」という第二の定義を提案する。ソクラテスは、計算や測定で解決できない正悪・美醜などの価値判断の不一致こそが、人間や神々の間に不和と敵意をもたらす原因であることを確認する。
- §8
敬虔と不敬の同一性の矛盾と不正への処罰の合意
ソクラテスは、神々の間に正義をめぐる不和があるならば、同一の事柄が神々に愛されかつ憎まれることになり、虔と不虔が同一になってしまう矛盾を指摘する。また、人間も神も「不正な者は罰せられるべきだ」という大原則には同意しつつも、具体的な行為が不正であるかどうかをめぐって争うのだと述べる。
- §9
すべての神々が愛するものという敬虔の再定義
ソクラテスはエウテュプロンに彼の父親の告発をすべての神々が正しいと考えている証拠を求めるが、たとえ神々が一致してある行為を憎むか愛するとしても、それだけでは「虔」の普遍的な定義にはならないと指摘し、議論を「すべての神々が愛するものが虔である」という定義に修正する。
- §10
敬虔なものと神に愛されるものの区別
ソクラテスは能動と受動、行為と状態の文法的な関係をもとに、虔なものが神々に愛される理由を分析する。そして、「虔なもの」と「神に愛されるもの」は定義上異なる概念であることをエウテュプロンに認めさせる。
- §11
デダロスの比喩と敬虔と正義の関係の問い
ソクラテスは「神に愛されるもの」と「虔なもの」が別物であることを論証し、当惑するエウテュプロンに対し、デダロスの比喩を交えつつ再び定義を求める。そして、虔なものはすべて正しい(正義に適う)ものであるかという新たなアプローチを提示する。
- §12
正義の一部分としての神々への奉仕と敬虔
ソクラテスは、すべて虔なものは正しいが、正しいものがすべて虔なわけではないという包含関係を、恐れと慎み、数と奇数の比喩を用いてエウテュプロンに示し、虔なものが「正しさ」のどのような部分であるかを尋ねる。これに対してエウテュプロンは、虔とは正しさのうち「神々への仕え」に関する部分であると答える。
- §13
神々への仕えの内容と人間が手伝う偉業の問い
ソクラテスは、エウテュプロンの定義した「神々への仕え」について検討を始める。仕えが対象を良くする活動であることや、仕えが奴隷の主人に対する「奉仕」のようなものであることを確認した上で、神々が人間を奉仕者として用いて成し遂げる偉大な仕事が何であるかを問う。
- §14
祈りと犠牲による奉仕と神々との取引の技術
ソクラテスは、神々のなす多くの美しい仕事の核心が何かを尋ねるが、エウテュプロンは祈りと犠牲による神々への喜ばせが虔であると論点を逸らす。ソクラテスは、虔とは神々と人間の間の「取引の技術」であると皮肉を込めて要約する。
- §15-16
議論の堂々巡りとエウテュプロンの立ち去り
ソクラテスは、神々が人間の贈り物から得る便益について問いかけ、虔の定義が再び「神に愛されるもの」という以前に否定された地点に戻って堂々巡りになっていることを指摘する。エウテュプロンは急用を理由に議論を打ち切って立ち去り、ソクラテスは自身の裁判における救いの希望が断たれたことを嘆く。
