底本
Cicero. M. Tullii Ciceronis De officiis ad Marcum filium libri tres, Paradoxa stoicorum, Timaeus. Baiter, J. G., editor. Leipzig: B. Tauchnitz, 1865.
原文データ出典
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要旨
本書は、キケロが友人ブルートゥスに献呈した、ストア派哲学の極端な命題(パラドクス)を弁論術の手法を用いて平易に論証する哲学書です。著者は、一般には受け入れがたいとされるストア派の教義を、ローマの歴史的先例や自身の政治的経験を交えながら、市民の耳に届く説得力ある言葉で語り直します。「徳のみが真の善である」という第一の逆説から始まり、「過ちの等価性」や「すべての愚者は奴隷であること」などの論題が順に論じられます。議論の中盤では、外的な困難に動じない賢者の幸福や、欲望に支配された支配者の精神的奴隷状態が対比されます。最終的に、真の自由や富は物質的な所有ではなく、内面の徳と自己管理にのみ存在することが示され、道徳的な生き方の完成が提示されて締めくくられます。
目次
10 チャンク
引用方式:book.section
- §intro.1-intro.5
ブルートゥスへの献辞とストア派の逆説の弁論的試み
キケロがブルートゥスに対し、叔父カトーのストア派哲学の弁論への応用能力を称賛し、自らもストア派の「逆説(パラドクス)」を共通の論題として弁論風に表現する試みを行ったことを述べ、本作を献呈する。
- §1.6-1.11
高貴なもののみが善であるという逆説の論証
著者は「高貴なもののみが善である」というストア派の第一のパラドクスを提示し、物質的富や快楽は真の善ではないと主張して、賢者ビアスの逸話やローマ建国の祖たちの徳に満ちた生き方を例に引く。
- §1.12-1.15
ローマの偉人の実例による徳の証明と快楽主義批判
著者はローマの偉人たちの具体例を挙げて、彼らの行動の動機が富や快楽ではなく徳であったことを示し、快楽を最高善とする説を批判して、幸福な生とは高潔に生きることに他ならないと主張する。
- §2.16-2.19
徳のみで幸福に十分であるという逆説の証明
著者はマルクス・レグルスやガイウス・マリウスの生涯を引き合いに出し、いかなる困難や外的な脅威も、徳を備えた幸福な精神を揺るがすことはできないと論じ、真の善と幸福が徳のみに依存することを主張する。
- §3.20-3.26
すべての過ちは等しいという逆説の論証
過ち(罪)の軽重は行為の対象や結果の大小ではなく、理性と秩序の破壊という悪徳の同一性において等しいというストア派のパラドクスを、具体例とソクラテスの権威を用いて論じる。
- §4.27-4.32
愚者の狂気と追放についての逆説的考察
「すべての愚者は狂気している」という逆説を論じ、キケロは自らの追放を「法律が機能していなかったため国家そのものが存在しなかった」とし、敵対者クロディウスこそが真の追放者(法の侵害者)であると主張する。
- §5.33-5.36
賢者のみが自由であり愚者はすべて奴隷である
欲望を制御できない者は他者を支配できず、賢者のみが自らの意志で生きる自由を有する。不届きな者はすべて、物質的な贅沢や異性に盲従する精神的奴隷であると論じられる。
- §5.37-5.41
欲望や恐怖への盲従が示す精神の奴隷状態
美術品への盲執や、遺産目当ての卑屈さ、名誉欲や恐怖心がもたらす支配を指摘し、あらゆる精神の臆病さこそが奴隷状態であると論じる。
- §6.42-6.46
賢者のみが富んでいるという逆説と貪欲者の貧困
キケロは「賢者のみが富んでいる」というストイック哲学のパラドクスを取り上げ、貪欲に富を追求し続け他者を搾取する者は、どれほど財産を所有していようとも、本質的に貧窮していると批判する。
- §6.47-6.52
節度と徳こそが真の富であるという結論
キケロは、真の富は外面的な財産の多さではなく、欲望を抑える「節約」や「徳」にあることを、歴史的偉人の先例や日常の生活態度を対比させて論じ、徳を備えた者だけが真に富んでいると結論づける。
