- 底本
- Platonis Opera, Tomus I: Tetralogia I-II. Burnet, John, 1863-1928, editor. Oxford: Clarendon Press, 1905.
- 翻訳
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- 言語
- 日本語 · English · 简体中文 · 한국어
- CTS URN
- urn:cts:greekLit:tlg0059.tlg007.humanitext-grc2:256
- 出力
- Humanitext Reader · reader.humanitext.ai · 2026-10-27
客人とテアイテトスは、運動が「同一なるもの」でありながら「同一なるもの」ではないという二面性を明らかにし、さらに運動が「存在するもの(存在)」とは異なること、ひいては「存在しないもの(非存在)」が運動や他のすべての類において必然的に存在することを論じる。
ΞΕ. ἔστι δέ γε διὰ τὸ μετέχειν τοῦ ὄντος. ΘΕΑΙ. ἔστιν. ΞΕ. αὖθις δὴ πάλιν ἡ κίνησις ἕτερον ταὐτοῦ ἐστιν. ΘΕΑΙ. σχεδόν. ΞΕ. οὐ ταὐτὸν ἄρα ἐστίν. ΘΕΑΙ. οὐ γὰρ οὖν. ΞΕ. ἀλλὰ μὴν αὕτη γʼ ἦν ταὐτὸν διὰ τὸ μετέχειν αὖ πάντʼ αὐτοῦ.1 ΘΕΑΙ. καὶ μάλα. ΞΕ. τὴν κίνησιν δὴ ταὐτόν τʼ εἶναι καὶ μὴ ταὐτὸν ὁμολογητέον καὶ οὐ δυσχεραντέον. οὐ γὰρ ὅταν εἴπωμεν αὐτὴν ταὐτὸν καὶ μὴ ταὐτόν, ὁμοίως εἰρήκαμεν, ἀλλʼ ὁπόταν μὲν ταὐτόν, διὰ τὴν μέθεξιν ταὐτοῦ πρὸς ἑαυτὴν οὕτω λέγομεν, ὅταν δὲ μὴ ταὐτόν, διὰ τὴν κοινωνίαν αὖ θατέρου, διʼ ἣν ἀποχωριζομένη ταὐτοῦ γέγονεν οὐκ ἐκεῖνο ἀλλʼ ἕτερον, ὥστε ὀρθῶς αὖ λέγεται πάλιν οὐ ταὐτόν. ΘΕΑΙ. πάνυ μὲν οὖν. ΞΕ. οὐκοῦν κἂν εἴ πῃ μετελάμβανεν αὐτὴ κίνησις στάσεως, οὐδὲν ἂν ἄτοπον ἦν στάσιμον αὐτὴν προσαγορεύειν; ΘΕΑΙ. ὀρθότατά γε, εἴπερ τῶν γενῶν συγχωρησόμεθα τὰ μὲν ἀλλήλοις ἐθέλειν μείγνυσθαι, τὰ δὲ μή. ΞΕ. καὶ μὴν ἐπί γε τὴν τούτου πρότερον ἀπόδειξιν ἢ τῶν νῦν ἀφικόμεθα, ἐλέγχοντες ὡς ἔστι κατὰ φύσιν ταύτῃ. ΘΕΑΙ. πῶς γὰρ οὔ; ΞΕ. λέγωμεν δὴ πάλιν· ἡ κίνησίς ἐστιν ἕτερον τοῦ ἑτέρου, καθάπερ ταὐτοῦ τε ἦν ἄλλο καὶ τῆς στάσεως; ΘΕΑΙ. ἀναγκαῖον. ΞΕ. οὐχ ἕτερον ἄρʼ ἐστί πῃ καὶ ἕτερον2 κατὰ τὸν νυνδὴ λόγον. ΘΕΑΙ. ἀληθῆ. ΞΕ. τί οὖν δὴ τὸ μετὰ τοῦτο; ἆρʼ αὖ τῶν μὲν τριῶν ἕτερον αὐτὴν φήσομεν εἶναι, τοῦ δὲ τετάρτου μὴ φῶμεν,3 ὁμολογήσαντες αὐτὰ εἶναι πέντε, περὶ ὧν καὶ ἐν οἷς προυθέμεθα σκοπεῖν; ΘΕΑΙ. καὶ πῶς; ἀδύνατον γὰρ συγχωρεῖν ἐλάττω τὸν ἀριθμὸν τοῦ νυνδὴ φανέντος. ΞΕ. ἀδεῶς ἄρα τὴν κίνησιν ἕτερον εἶναι τοῦ ὄντος διαμαχόμενοι λέγωμεν; ΘΕΑΙ. ἀδεέστατα μὲν οὖν. ΞΕ. οὐκοῦν δὴ σαφῶς ἡ κίνησις ὄντως οὐκ ὄν ἐστι καὶ ὄν, ἐπείπερ τοῦ ὄντος μετέχει; ΘΕΑΙ. σαφέστατά γε. ΞΕ. ἔστιν ἄρα ἐξ ἀνάγκης τὸ μὴ ὂν ἐπί τε κινήσεως εἶναι καὶ κατὰ πάντα τὰ γένη· κατὰ πάντα γὰρ ἡ θατέρου φύσις ἕτερον ἀπεργαζομένη τοῦ ὄντος ἕκαστον οὐκ ὂν ποιεῖ, καὶ σύμπαντα δὴ κατὰ ταὐτὰ οὕτως οὐκ ὄντα ὀρθῶς ἐροῦμεν, καὶ πάλιν, ὅτι μετέχει τοῦ ὄντος, εἶναί τε καὶ ὄντα. ΘΕΑΙ. κινδυνεύει. ΞΕ. περὶ ἕκαστον ἄρα τῶν εἰδῶν πολὺ μέν ἐστι τὸ ὄν, ἄπειρον δὲ πλήθει τὸ μὴ ὄν. ΘΕΑΙ. ἔοικεν.
客人:しかし、それは存在するものに与っているがゆえに、存在します。テアイテトス:存在します。客人:そして今度はさらに、運動は「同一なるもの」とは異なるものです。テアイテトス:ほぼそうです。客人:したがって、それは「同一なるもの」ではありません。テアイテトス:本当にそうではありませんね。客人:しかし、まさにこれ(運動)は、すべてのものが今度はそれに与っているがゆえに、「同一なるもの」でもあったはずです。テアイテトス:まったくその通りです。客人:したがって、運動が「同一なるもの」であり、かつ「同一なるもの」ではないということを合意すべきであり、それを嫌がってはなりません。というのも、私たちがそれを「同一なるもの」であり「同一なるもの」ではないと言うとき、私たちは同じ意味でそう言っているのではないからです。すなわち、「同一なるもの」と言うときは、それ自体に対する「同一なるもの」への与託のゆえにそのように言っているのであり、他方、「同一なるもの」ではないと言うときは、今度は「他なるもの」との共有のゆえにそのように言っているのであって、この共有のゆえに、運動は「同一なるもの」から分離されて、それではなく「他なるもの」になったのであり、その結果、再びそれが「同一なるもの」ではないと言われるのも正しいのです。テアイテトス:まったくその通りです。客人:それでは、もし運動自体が何らかの仕方で静止に与っていたとするなら、それを「静止しているもの」と呼ぶことも、少しも不都合ではなかったでしょうね。テアイテトス:きわめて正しいです、もし諸類のうち、あるものは互いに混じり合おうとし、あるものはそうしないということに、私たちが合意するならばですが。客人:そして実に、私たちは今の事柄よりも前に、このことの証明に到達しており、そのようにあることが自然に適っていることを論証したのです。テアイテトス:どうしてそうでないことがありましょう。客人:では再び言いましょう。運動は、それが「同一なるもの」とも「静止」とも異なるものであったように、「他なるもの」ともまた異なるものでしょうか。テアイテトス:必然的にそうです。客人:とすれば、さきほどの議論に従えば、それはある意味で「他ならぬもの」であり、かつ「他なるもの」でもあるわけですね。テアイテトス:本当です。客人:では、この次のことはどうでしょう。私たちは、運動が三つのものとは異なると言いながら、第四のものとは異ならないと言うべきでしょうか。私たちが検討することを提案し、またその中で検討しようとした形相が五つあると合意したにもかかわらず。テアイテトス:どうしてそんなことがありえましょう。さきほど現れた数よりも少ない数を認めることは不可能ですから。客人:では、私たちは恐れることなく、運動は「存在するもの」とは異なるものであると、強く主張して言うべきでしょうか。テアイテトス:この上なく恐れずに言うべきです。客人:したがって、運動は明らかに、実際において「あらぬもの」であり、かつ「あるもの」です、まさに「存在するもの」に与っているがゆえに。テアイテトス:きわめて明らかです。客人:したがって、「あらぬもの」は運動においてもあることが必然であり、またすべての類についても同様です。なぜなら、すべての類において、「他なるもの」の本性が、個々のものを「存在するもの」とは異なるものに仕立て上げることで、「あらぬもの」にするからです。そして私たちは、すべてのものについて、同じ理由でこのように「あらぬもの」であると正しく言うでしょうし、他方で、それらが「存在するもの」に与っているがゆえに、存在し、かつ「あるもの」であるとも正しく言うでしょう。テアイテトス:おそらくそのようです。客人:したがって、個々の形相について、「あるもの」は多くありますが、「あらぬもの」は数において無限にあります。テアイテトス:そのようですね。
- 256aἀλλὰ μὴν αὕτη γʼ ἦν ταὐτὸν διὰ τὸ μετέχειν αὖ πάντʼ αὐτοῦ
主語 αὕτη(運動)は、前文の ἡ κίνησις を受けている。πάντʼ は πάντα(中性複数)で「すべてのもの」を意味する主語。αὐτοῦ は中性単数属格で、その前の ταὐτόν(同一なるもの)を指す。「すべてのものが(同一なるものに)与っている」ため、運動もまた「同一なるもの」であるという論理。一部の解釈では πάντα が運動自身を指すとされるが、ここでは五大類の普遍的な相互参与を指すため、すべてのものが「同一なるもの」に与るという普遍称として解釈するのが自然である。
- 256cοὐχ ἕτερον ἄρʼ ἐστί πῃ καὶ ἕτερον
οὐχ ἕτερον(他なるものではない)と ἕτερον(他なるもの)という二つの相反する述語が、接続詞 καί によって結ばれ、運動の属性として同時に主張されている。運動は「他なるもの」(のイデア)そのものとは異なるため「他なるものではない(οὐχ ἕτερον)」が、他方で「他なるもの」に与っているがゆえに他のものに対して「他なるもの(ἕτερον)」である。この二重の主述関係(同一性と他者性)が πῃ(ある意味で)によって調停されている構文を正確に読み取ることが重要である。
- 256cτῶν μὲν τριῶν ἕτερον αὐτὴν φήσομεν εἶναι, τοῦ δὲ τετάρτου μὴ φῶμεν
τῶν μὲν τριῶν(三つのもの)は、すでに運動がそれらと異なると論証された「静止」「同一なるもの」「他なるもの」を指し、τοῦ δὲ τετάρτου(第四のもの)は残る「存在するもの(存在)」を指す。運動(αὐτήν)がこれら五大類(運動自身を除く4つ)すべてと異なっていることを段階的に合意させる文理であり、名詞の省略(εἴδων または γενῶν)を補って数理的な整合性を読み解く必要がある。
