- 底本
- Platonis Opera, Tomus I: Tetralogia I-II. Burnet, John, 1863-1928, editor. Oxford: Clarendon Press, 1905.
- 翻訳
- AI生成(gemini-3.5-flash) — 機械翻訳のため誤りを含む場合があります
- 言語
- 日本語 · English · 简体中文 · 한국어
- CTS URN
- urn:cts:greekLit:tlg0059.tlg004.humanitext-grc2:67
- 出力
- Humanitext Reader · reader.humanitext.ai · 2026-10-27
ソクラテスは、魂を肉体からできる限り切り離す「浄化」こそが哲学の修練であり、死とは魂の肉体からの分離にほかならないため、真の哲学者は死を恐れずにその練習をしているのだと主張する。
ΦΑΙΔ. εἰ γὰρ μὴ οἷόν τε μετὰ τοῦ σώματος μηδὲν καθαρῶς γνῶναι, δυοῖν θάτερον,1 ἢ οὐδαμοῦ ἔστιν κτήσασθαι τὸ εἰδέναι ἢ τελευτήσασιν· τότε γὰρ αὐτὴ καθ’ αὑτὴν ἡ ψυχὴ ἔσται χωρὶς τοῦ σώματος, πρότερον δ’ οὔ. καὶ ἐν ᾧ ἂν ζῶμεν, οὕτως, ὡς ἔοικεν, ἐγγυτάτω ἐσόμεθα τοῦ εἰδέναι, ἐὰν ὅτι μάλιστα μηδὲν ὁμιλῶμεν τῷ σώματι μηδὲ κοινωνῶμεν, ὅτι μὴ πᾶσα ἀνάγκη,2 μηδὲ ἀναπιμπλώμεθα τῆς τούτου φύσεως, ἀλλὰ καθαρεύωμεν ἀπ’ αὐτοῦ, ἕως ἂν ὁ θεὸς αὐτὸς ἀπολύσῃ ἡμᾶς· καὶ οὕτω μὲν καθαροὶ ἀπαλλαττόμενοι τῆς τοῦ σώματος ἀφροσύνης, ὡς τὸ εἰκὸς μετὰ τοιούτων τε ἐσόμεθα καὶ γνωσόμεθα δι’ ἡμῶν αὐτῶν πᾶν τὸ εἰλικρινές, τοῦτο δ’ ἐστὶν ἴσως τὸ ἀληθές· μὴ καθαρῷ γὰρ καθαροῦ ἐφάπτεσθαι μὴ οὐ θεμιτὸν ᾖ.3 τοιαῦτα οἶμαι, ὦ Σιμμία, ἀναγκαῖον εἶναι πρὸς ἀλλήλους λέγειν τε καὶ δοξάζειν πάντας τοὺς ὀρθῶς φιλομαθεῖς. ἢ οὐ δοκεῖ σοι οὕτως; παντός γε μᾶλλον, ὦ Σώκρατες. οὐκοῦν, ἔφη ὁ Σωκράτης, εἰ ταῦτα ἀληθῆ, ὦ ἑταῖρε, πολλὴ ἐλπὶς ἀφικομένῳ οἷ ἐγὼ πορεύομαι, ἐκεῖ ἱκανῶς, εἴπερ που ἄλλοθι, κτήσασθαι τοῦτο οὗ ἕνεκα ἡ πολλὴ πραγματεία ἡμῖν ἐν τῷ παρελθόντι βίῳ γέγονεν, ὥστε ἥ γε ἀποδημία ἡ νῦν μοι προστεταγμένη μετὰ ἀγαθῆς ἐλπίδος γίγνεται καὶ ἄλλῳ ἀνδρὶ ὃς ἡγεῖταί οἱ παρεσκευάσθαι τὴν διάνοιαν ὥσπερ κεκαθαρμένην. πάνυ μὲν οὖν, ἔφη ὁ Σιμμίας. κάθαρσις δὲ εἶναι ἆρα οὐ τοῦτο συμβαίνει, ὅπερ πάλαι ἐν τῷ λόγῳ λέγεται, τὸ χωρίζειν ὅτι μάλιστα ἀπὸ τοῦ σώματος τὴν ψυχὴν καὶ ἐθίσαι αὐτὴν καθ’ αὑτὴν πανταχόθεν ἐκ τοῦ σώματος συναγείρεσθαί τε καὶ ἁθροίζεσθαι, καὶ οἰκεῖν κατὰ τὸ δυνατὸν καὶ ἐν τῷ νῦν παρόντι καὶ ἐν τῷ ἔπειτα μόνην καθ’ αὑτήν, ἐκλυομένην ὥσπερ δεσμῶν ἐκ τοῦ σώματος; πάνυ μὲν οὖν, ἔφη. οὐκοῦν τοῦτό γε θάνατος ὀνομάζεται, λύσις καὶ χωρισμὸς ψυχῆς ἀπὸ σώματος; παντάπασί γε, ἦ δ’ ὅς. λύειν δέ γε αὐτήν, ὥς φαμεν, προθυμοῦνται ἀεὶ μάλιστα καὶ μόνοι οἱ φιλοσοφοῦντες ὀρθῶς, καὶ τὸ μελέτημα αὐτὸ τοῦτό ἐστιν τῶν φιλοσόφων, λύσις καὶ χωρισμὸς ψυχῆς ἀπὸ σώματος· ἢ οὔ; φαίνεται. οὐκοῦν, ὅπερ ἐν ἀρχῇ ἔλεγον, γελοῖον ἂν εἴη ἄνδρα παρασκευάζονθ’ ἑαυτὸν ἐν τῷ βίῳ ὅτι ἐγγυτάτω ὄντα τοῦ τεθνάναι οὕτω ζῆν, κἄπειθ’ ἥκοντος αὐτῷ τούτου ἀγανακτεῖν; γελοῖον· πῶς δ’ οὔ; τῷ ὄντι ἄρα, ἔφη, ὦ Σιμμία, οἱ ὀρθῶς φιλοσοφοῦντες ἀποθνῄσκειν μελετῶσι, καὶ τὸ τεθνάναι ἥκιστα αὐτοῖς ἀνθρώπων φοβερόν. ἐκ τῶνδε δὲ σκόπει.
パイドン: 「というのも、もし体とともにあっては、何一つ純粋に知ることが不可能であるならば、二つのうちどちらか一方である。すなわち、知ることを獲得することはどこにおいても不可能であるか、あるいは、死んだ者たちにとって可能であるかのいずれかである。なぜなら、そのときこそ、魂は体から離れて、それ自体として存在するようになるが、それ以前にはそうではないからである。そして、私たちが生きている間も、このようにして、どうやら私たちは知ることに最も近づくだろう。もし私たちが、絶対にやむを得ない場合を除いて、体と交わることもなく、いかなる共有もせず、また体の自然に感染させられることもなく、神ご自身が私たちを解放してくださるまで、体から身を清めているならば。そして、このようにして体の愚かさから解放されて純粋になり、おそらく私たちは同じような純粋な者たちとともにいることになり、私たち自身を通じて純粋なものすべてを知ることになるだろう。そしてこれこそが、おそらくは真理なのだ。なぜなら、純粋でない者が純粋なものに触れることは、許されないかもしれないからだ。 シミアスよ、正しく知を愛するすべての者たちは、お互いにこのようなことを語り、またそう考えるのが必然であると私は思う。あるいは、君にはそうは思われないかね?」 「ソクラテスよ、何よりもそのように思われます。」 ソクラテスは言った。「それなら、友よ、もしこれが真実であるならば、私が赴こうとしている場所に到着したとき、私たちの過去の人生において多大なる労苦を払ってきた目的そのものを、そこで十分に、もし他のどこかで獲得できるとすれば、獲得できるという大いなる希望がある。したがって、今私に命じられているこの旅立ちは、自らの思考が清められたものとして準備が整っていると考える他のいかなる人にとっても、良い希望を伴ってなされるのだ。」 シミアスは言った。「全くその通りです。」 「ところで、浄化(カタルシス)とは、この議論の中でずっと言われてきたこと、すなわち、魂を体からできる限り切り離し、魂自身が体のあらゆる部分から自らのうちに集まり、統合されるよう習慣づけること、そして、現在においても将来においても、可能な限り、体からいわば絆から解き放たれるようにして、それ自体だけで単独で生きるようにすること、まさにこれではないだろうか?」 「全くその通りです」と彼は言った。 「それなら、まさにこのことが『死』、すなわち魂の体からの解放と分離と呼ばれるのではないかね?」 「完全にその通りです」と彼は言った。 「そして、私たちが言うように、魂を解放することを常に最も熱望し、またそうする唯一の者たちは、正しく哲学する者たちであり、哲学者たちの修練そのものがまさにこれ、すなわち魂の体からの解放と分離ではないだろうか?」「そのように見えます。」 「それなら、最初に私が言ったように、生涯を通じて自分自身を死に最も近い状態にあるように準備し、そのように生きておきながら、いざ死が訪れたときに憤慨するような人がいるとすれば、それは滑稽なことではないだろうか?」 「滑稽です。どうしてそうでなくておられましょう。」 ソクラテスは言った。「それゆえ、シミアスよ、実際、正しく哲学する者たちは死ぬことの練習をしているのであり、死ぬことは人間の中で彼らにとって最も恐ろしくないことなのだ。次のことから考えてみなさい。」
- 67δυοῖν θάτερον
「二つのうちいずれか一方」を意味する独立した表現。続く ἢ οὐδαμοῦ ἔστιν κτήσασθαι τὸ εἰδέναι ἢ τελευτήσασιν において、ἔστιν は「〜が可能である」という非人称の動詞として機能しており、τελευτήσασιν は「死んだ者たちにとって」という意味の与格(完了分詞複数与格男性)である。
- 67aὅτι μὴ πᾶσα ἀνάγκη
ὅτι μή は「〜を除いて(except)」を意味する慣用表現。ここでは「全面的な必要性がある場合を除いて」となり、肉体を維持するための最低限のやむを得ない場合を除いて、というニュアンスを表す。
- 67bμὴ καθαρῷ γὰρ καθαροῦ ἐφάπτεσθαι μὴ οὐ θεμιτὸν ᾖ
μὴ ... ᾖ は、懸念や控えめな主張を表現する独立の接続法(いわば「〜ではないかと恐れる」「おそらく〜であろう」)。否定の μὴ οὐ は、ここでは θεμιτόν(神法上許されること)を否定して「許されない(不法である)」という意味を形成し、全体として「(純粋でない者が純粋なものに触れることは)神法上許されないかもしれない」という強い懸念を伴う見解を示す。
