アリストテレス · Aristotle
ニコマコス倫理学
Nicomachean Ethics
ギリシア語原文(原典)と日本語・英語・中国語・韓国語の対訳・語釈を、全文無料・登録不要で公開しています。
底本
Aristotle. Aristotelis Ethica Nicomachea. Bywater, Ingram, editor. Oxford: Clarendon Press, 1894.
原文データ出典
Perseus Digital Library · CC BY-SA 4.0
元ファイル: urn:cts:greekLit:tlg0086.tlg010.perseus-grc2
Humanitext がクローン・再構成し、継続的に更新しています。
翻訳と校閲
翻訳:Gemini 3.5 Flash(2026-05-22 公開)
AI校閲 2026-09-22:検出 Gemini 3.8 Flash/判定 Gemini 3.8 Flash・GPT-6 Astra — 日本語訳 43 件・原文 9 件を修正
AI校閲 2026-10-12:検出 Gemini 3.8 Flash/判定 Claude Opus 5.5 — 日本語訳の修正なし
反映した修正(日本語訳と原文):AI校閲 52 件・表記の統一 3 件・読者の報告(校訂者が修正) 2 件
日本語訳を再翻訳したチャンク:11
最終更新:2026-10-10・変更履歴の一覧
要旨
本書は、人間のあらゆる行為が目指すべき最高善(幸福)とは何か、そしてそれをいかに実現するかを探求した、アリストテレスによる実践哲学の講義録である。著者はまず、幸福を「徳(アレテー)に適った魂の活動」と定義し、人間の魂の構造に対応させて、徳を倫理的徳と知性的徳に大別する。前半では、倫理的徳が習慣化を通じて獲得されることや、超過と不足を避ける「中庸(メソーテース)」の状態であることを示し、正義や自発性の概念を精緻に分析する。中盤では、実践的判断力である「思慮(プロネーシス)」などの知性的徳、さらには人間関係を支える「友愛(フィリア)」や自制の問題が多角的に議論される。結末において、著者は真の幸福を、人間の最高部分である知性の活動たる「観照(テオーリア)」に見出す。そして、この卓越した生き方を社会的に可能にするための法律と国家制度の必要性を説き、議論を「政治学」へと接続させて結ぶ。
目次
123 チャンク
引用方式:book.section
- §1.1-1.3
善を目的とする行為と最高善を探究する国家学
あらゆる行為が善を目指すこと、そして人間の最高善を追究する学問が国家学であることを提示し、講義の前提として、対象に応じた精密さを求めるべきこと、聴講者には人生の経験と理性が求められることを述べる。
- §1.4-1.5
最高善としての幸福と三つの生き方の検討
著者は幸福を行為の最高善と規定し、大衆の快楽的な意見とイデア論を対照した後、正しい学びのためには「事実」という出発点が必要であることを指摘する。続いて、快楽、名誉、徳の限界を指摘し、それぞれの生き方の類型を分析する。
- §1.6#1
善のイデア論批判と範疇による善の多義性
アリストテレスはプラトンの善のイデア論に対する批判を開始し、善が様々な範疇(カテゴリー)にわたって多義的に語られること、また「それ自体」という表現の不合理さを指摘する。
- §1.6#2
それ自体としての善と善のイデアの実践的無用性
アリストテレスは、「それ自体としての善」が多様な定義をもつため単一のイデアは存在しえないと主張し、さらに実践から離れた「善のイデア」は具体的・個別的な諸技術にとって無用であることを指摘する。
- §1.7#1
完全性と自足性に基づく最高善としての幸福の規定
目的の概念から最高の実践的善を探究し、手段ではなくそれ自体として追求される究極的な(完全な)善であり、それだけで人生を十分に満たす自足的な善として、幸福を最高善(目的)と規定する。
- §1.7#2
人間の機能論と徳にかなう魂の活動としての善
著者は人間の「機能(エルゴン)」についての議論を導入し、人間固有の機能が「理性を有する部分の活動」であることを示す。そこから、人間の善とは徳にかなった魂の活動であると定義し、探究における方法論的厳密さの限界と原理の重要性について注意を促す。
- §1.8
幸福の定義と通説の照合および外的な善の必要性
幸福の定義を既存の通説(外的な善・身体の善・魂の善の三分法など)と照らし合わせ、その整合性を確認する。幸福には徳に基づく活動としての快楽が内在しているが、それと同時に外的な善(富、友人、生まれの良さなど)も道具として必要であることを論じる。
- §1.9
幸福の獲得法と完全な徳および完全な生涯
幸福が神の贈り物なのか、あるいは学習や訓練、運などを通じて獲得されるものなのかを考察し、幸福には完全な徳と完全な生涯が必要であることを論じる。これに基づき、活動能力を持たない動物や子供は真の意味で幸福とは呼ばれず、人生の終盤に悲惨な不運に見舞われたプリアモスの例が提示される。
- §1.10#1
ソロンの格言と幸福の安定性および運の影響
生存中に人を幸福と呼ぶべきではないというソロンの格言を出発点として、死者の幸福や子孫の運命が死者に与える影響を巡るアポリアを検討し、幸福が運ではなく徳にかなった安定的活動に基づくものであることを論じる。
- §1.10#2
徳の活動の永続性と幸福な人の定義
幸福の安定性は徳にかなった活動の永続性に起因することを示し、不運にあってもその高貴さは失われないと説く。そして、必要な外的善を備え完全な徳に従って生涯を生きる人を、人間としての幸福な人と定義する。
- §1.11-1.12
死者の幸福への影響と尊ばれるべきものとしての幸福
死者の幸福に対する子孫や友人の運命の影響は極めて微小であり、彼らの幸福の有無を左右するものではないと結論づける。続いて、幸福が「称賛されるもの」ではなく「尊ばれるもの(完成されたもの)」、すなわち他のあらゆる善い活動の目的たる究極の原理であることを論じる。
- §1.13
魂の構造と二種類の徳の区分
幸福が完全な徳に従う魂の活動であることから、徳を検討する必要性を説き、魂の構造(理性的部分と非理性的部分、さらにその細分化)を明らかにして、それぞれに対応する徳(知性的徳と倫理的徳)の区分の端緒を開く。
- §2.1
倫理的徳の習慣づけによる獲得
徳は知性的徳と倫理的徳に大別され、倫理的徳は自然(本性)によってではなく、活動の反復と習慣(エトス)を通じて獲得されることを、自然物の法則や技術習得の類比、国家の立法、個人の行為の蓄積から論じる。
- §2.2
実践の探究と過度と不足を避ける中庸
本チャンクでは、倫理学が実践的な学問であることを強調し、行為は正しい理(ロゴス)に従うべきであること、行為の指針は固定されておらず過度と不足を避けて中庸を目指すべきであることを、健康や体力の例を用いて論じる。さらに、適切な習慣づけが徳の状態を形成し、その状態がさらなる適切な実践を可能にするという相乗関係を説明する。
- §2.3
徳の指標としての快楽と苦痛
徳の指標が行為に伴う快楽と苦痛にあることを指摘し、徳が快楽と苦痛に関するものである理由を、教育、刑罰、選択・回避の対象などの観点から多角的に説明する。
- §2.4-2.5
徳ある行為の成立条件と魂の状態としての徳
第4章では、行為を通じて徳を形成するという議論のパラドックスを検討し、徳の行為が成り立つためには単なる知識だけでなく、意図的な選択と確固たる性格状態が必要であることを解明する。第5章では、魂の中に生じる要素(受動、能力、状態)を分類・比較し、徳がこれらの中で「状態」に分類されることを証明する。
- §2.6#1
固有の機能の卓越性と我々に対する中庸
徳がどのような状態であるかを定義するため、すべての事物の「徳」が持つ、そのものを善い状態にし機能を果たさせるという性質を説明する。その上で、感情や行為(倫理的徳の領域)における「我々に対する中間(中庸)」の概念を、算術的中間や技術の営みとの対比から明らかにする。
- §2.6#2
徳の定義としての中庸と中庸を欠く絶対悪
徳が感情と行為における超過と不足を避けて中庸を選択する状態であることを明確にし、徳の定義をまとめるとともに、悪意や殺人など中庸が存在せずそれ自体が常に悪とされる行為・感情があることを指摘する。
- §2.7#1
個別の徳における中庸と超過および不足
アリストテレスは中庸の一般論を具体的な徳の事例に適用し、勇気、節制、寛厚、豪奢、矜持、そして名誉に関するそれぞれの超過、不足、中庸の状態を体系的に整理する。
- §2.7#2
対人関係や感情における諸徳と中庸の列挙
アリストテレスは怒りに関する温和、言葉と行為の交際に関する真実・機知・友愛、さらに感情における慎みや義憤などの諸々の徳とその両極(超過と不足)について列挙し、今後の議論の進め方に言及する。
- §2.8
中庸と両極端の相互対立と対立の度合い
アリストテレスは、中庸が二つの極端(超過と不足)とどのようにお互いに対立しているかを説明し、両極の間の対立の方が中庸との対立よりも大きいことを示す。さらに、中庸に対立する極端のうち、一方(不足か超過のいずれか)が事物自体の性質や人間の自然な傾向性ゆえに、他方よりもいっそう対立するものと見なされる理由を分析する。
- §2.9
中庸把握の困難とそれを目指す実践的指針
徳が中庸であることの要約と、中庸を実践するための具体的な行動指針(過ちの多い極端から離れること、個人の傾向や快楽を警戒すること、具体的判断は感覚によること)を提示する。
- §3.1#1
自発的行為と非自発的行為および混合された行為
アリストテレスは徳の定義に不可欠な自発性と非自発性の探求を始め、強制や無知による非自発的行為と、外的脅迫や極限状況下での「混合された行為」の自発的性質について検証する。
- §3.1#2
無知による行為の区分と自発的行為の定義
アリストテレスは、無知による行為における「自発的でないもの」と「非自発的なもの」(後悔と苦痛を伴うもの)の区別、および「無知によって行うこと」と「無知の状態で(怒りや酔いによって)行うこと」の差異を論じ、さらに自発的な行為の定義を提示して、怒りや欲望に基づく行為が非自発的とされるべきではない理由を説明する。
- §3.2
選択の概念と欲望や意見との区別
アリストテレスは「選択」を検討し、それが自発的なものであるが自発性そのものとは異なることを確認した上で、欲望、怒り、願い、意見のいずれとも同一視できない独自の概念であることを論証する。
- §3.3
熟慮の対象と手段および選択の定義
熟慮(相談)の対象は「私たちに依存し、自分自身を通じて実行可能な手段」に限定されることを明らかにし、選択とはこの熟慮を経た欲求であることを定義する。
- §3.4
願いの対象である真の善と見かけの善
アリストテレスは「願い」の対象が本来的な善なのか見かけの善なのかを議論し、優れた人には真の善が、劣った人にはたまたまそう思われた善が対象となると述べることで、優れた人がすべての判断基準であることを示す。
- §3.5#1
徳と悪徳の自発性とわれわれの責任
徳と悪徳は、行為の始原がわれわれ自身のうちにあるため自発的なものであり、立法者の賞罰の仕組みや、習慣の積み重ねによって品性が形成されるという事実がこれを証していることを論じる。
- §3.5#2
性格の形成と悪徳の責任および徳論の総括
悪徳もまた徳と同様に、性質の形成に主体的に関わっている点で自発的であることを、身体の欠点や決定論的反論への批判を通じて論じる。最後に、徳全般についての議論を総括し、個別の徳の検討へと移行する。
- §3.6
勇敢さの定義と恐るべき対象
アリストテレスは個別の徳の検討に入り、まず「勇敢さ」を取り上げる。それは恐怖と大胆さに関する中庸であり、特に戦争における最も美わしい死のような、自らの力で抗する余地があるか、あるいは死ぬことが高尚である状況での恐れを克服することこそが本来の勇敢さであると規定する。
- §3.7
勇敢な人の態度と過不足による悪徳
勇敢な人が恐怖と大胆さにどう向き合うかを説明し、過度な者(恐れを知らない者、蛮勇な者、臆病者)の性格特徴を定義した上で、苦痛から逃れるための自殺は勇敢ではなく臆病の表れであると指摘する。
- §3.8#1
市民の勇敢さと経験による勇敢さ
アリストテレスは真の勇敢さに似た五つの異なる勇敢さの形態について論じ始め、第一に名誉や不名誉の感覚に基づく「市民の勇敢さ」と強制された勇敢さを対比し、第二に危険への習熟に基づく「経験による勇敢さ」について市民兵と職業軍人の行動の違いを交えて説明する。
- §3.8#2
激情・楽観・無知による擬似的な勇敢さ
激情、楽観、そして無知に起因する行動が真の勇敢さとどのように異なるかを分析し、予期せぬ恐怖において動揺しない品性としての真の勇敢さの条件を提示する。
- §3.9
苦痛に耐える勇敢さとその快い目的
勇敢さは自信よりも恐怖、特に死や負傷といった苦痛を耐えることに関わるものであり、その目的は快いものであるが周囲の苦痛に覆い隠されている。徳が高く幸福な人ほど死による最大の善の喪失をより苦痛に感じるが、それでも高尚さのために死を選択する。
- §3.10
節制の対象となる身体的快楽
勇敢に続いて節制を取り上げ、精神的な快楽と身体的な快楽を区別した上で、節制と放縦が特に関わるのは、他の動物とも共有される触覚と味覚という身体的快楽であることを論じている。
- §3.11
欲望の区分と放縦・無感覚・節制の特徴
欲望を自然なものと個別的なものに区別し、放縦な者が快楽と苦痛の両方においていかに度を越しているかを論じる。また、極端に快楽を避ける無感覚さは人間らしさを欠くものであり、節制のある人が正しい理性に従って適度な中庸を保つことを説明する。
- §3.12
放縦の自発性と欲望が理性に服従すべき理由
放縦が臆病よりも自発的である理由が、個別の状況と全体の性向との対比から論じられ、さらに子供の教育と欲望の抑制の類似性を通して「放縦(アコラシア)」という言葉の本来の意味と、欲求が理性に服従すべき理由が示される。
- §4.1#1
財貨に関する中庸としての寛厚さと放蕩と吝嗇
アリストテレスは財貨に関する徳である「寛厚さ」を定義し、過度である「放蕩」と不足である「吝嗇」の性質を対比させながら、正しい与え方と受け取り方の基準を詳細に論じる。
- §4.1#2
資力に応じた寛厚さと放蕩と吝嗇の性質の比較
寛厚さは与える額の絶対量ではなく、個人の資力に相対的な徳であると論じられ、さらに若さや困窮によって矯正可能な放蕩は、吝嗇に比して寛厚の極に近く、卑劣というよりは愚かな品性であるとされる。
- §4.1#3
放蕩者の不当な取得と治療不能な吝嗇の諸形態
アリストテレスは、多くの放蕩者が受け取りの点でも不正になり、放縦に陥りやすいことを指摘する。一方で、治療不可能で多様な現れ方をする吝嗇の性質を分析し、恥ずべき利得を貪る者たちがこれに分類されることを示す。
- §4.2#1
大規模なふさわしい支出としての豪奢の定義
アリストテレスは「豪奢」という徳を導入し、それが富に関する徳であるものの、寛厚さとは異なって大規模な支出にのみ関わるものであることを説明する。また、豪奢な支出は行為者の身分や資力、公共の利益といった適合性(ふさわしさ)に応じてなされるべきであることを論じる。
- §4.2#2
豪奢に必要な条件と私的支出および俗悪とけち
アリストテレスは貧困者が豪奢であり得ない理由、豪奢にふさわしい資力や属性を論じ、私的領域での具体的な支出対象を解説する。さらに、その過度(俗悪)と不足(けち)の具体例を示しつつ、これらが他人に害をなさない悪徳であることを述べる。
- §4.3#1
矜持の定義と完全な徳および名誉に対する態度
アリストテレスは「矜持(大器量)」の概念を定義し、それが「自らを大きな価値に値すると見なし、かつ実際にその価値がある」中庸の状態であることを説明する。また、それがすべての美徳を前提とし、外的な善、特に名誉に対して適切な態度を保持するものであることを論じる。
- §4.3#2
矜持のある人の特徴と小心および虚栄
矜持のある人の傲慢な模倣者たち、および彼の様々な性格的特徴(恩恵への態度、危険に対する姿勢、対人関係など)を詳述し、さらに小心と虚栄という極端な状態の欠陥について論じている。
- §4.4
適度な名誉に関する徳と名誉欲および中庸
アリストテレスは、大きな名誉に関わる「矜持」に対し、適度な名誉に関わるもう一つの匿名の徳が存在することを論じ、その中庸と両極(名誉欲と名誉への不関心)の非対称な関係を説明する。
- §4.5
怒りに関する中庸としての温厚と過度および不足
怒りに関する中庸である「温厚」と、その両極である過度(怒りっぽさ、かんしゃく、執念深さ、気難しさ)および不足(無怒)について、それぞれの具体的な特徴と、中庸を規定することの困難さが論じられている。
- §4.6
交際における中庸としての友愛に似た徳
本チャンクでは、交際や共同生活における中間の徳が論じられる。過度の側である「八方美人」や「媚びへつらう者」、不足の側である「気難しい者」との対比を通じて、相手を適切に喜ばせ、あるいは不快にさせるべき状況を美や有用性に基づいて判断する、無名の徳(友愛に似たもの)の性質が明らかにされる。
- §4.7
自己表現における誠実さと自慢およびとぼけ
自己表現における真実と虚偽に関わる品性状態である、誇張(自慢)と自己卑下(とぼけ)およびその中間の誠実さについて、それぞれの定義、動機、社会的評価を論じる。
- §4.8-4.9
社交の遊びにおける機知と羞恥の性質
対話や遊びにおける調和のとれた交際のあり方として「機知」を定義し、道化や野暮との違いを明らかにするとともに、羞恥心や自制心は厳密な意味での徳ではなく情念や混合状態であることを解説する。
- §5.1#1
正義と不正の探究と状態の性質および多義性
アリストテレスは正義と不正についての探究を開始し、能力や学問と異なり「状態(ヘクシス)」は一方向的であることを指摘する。さらに、正義と不正の多義性に触れつつ、不正な人を「法に背く者」「欲張りな者」「不公平な者」として暫定的に規定する。
- §5.1#2
全体的正義と他者に対する徳としての性格
アリストテレスは「不公平」の概念の包括性を指摘し、法にかなうこととしての「全体的な正義」を規定する。この正義は、他者との関係においてのみ完全に発揮されるため「他人の善」とも呼ばれ、個人の内的な徳とはその本質(定義)において区別される。
- §5.2
個別的正義の存在と配分的正義・是正的正義の区分
アリストテレスは、徳の一部分としての「個別的な正義」と「個別的な不正」の存在を利得や他の悪徳との比較を通して論証し、個別的正義を「配分的正義」と「是正的正義」の二つの種類に分類する。
- §5.3
配分的正義と幾何学的比例による均等
アリストテレスは、配分的正義における「正しいこと」が比例(幾何学比例)関係に基づくものであることを論じる。これは少なくとも四つの項(二人の人と二つの分け前)の比の均等から成り立ち、公平は中間であり、不正は比例に反することであることを明らかにする。
- §5.4
是正的正義と算術的比例による均等の回復
配分における幾何学的比例に対し、取引における是正的(修復的)正義は算術的比例に従うことを説明し、裁判官が利益と損失の「中間」を回復する均等化の役割について論じる。
- §5.5#1
比例的往復と交換における貨幣の役割
ピュタゴラス派の同害報復的な応報論を批判し、異なる職能間の自発的な経済交換を成立させるためには、等価性に基づく比例的な往復的応報が必要であることを示す。異なる生産物を等しく測定し交換可能にするための基準として、人間の共同生活における「需要」と、その制度的代用品である「貨幣」の機能が説明される。
- §5.5#2
貨幣による財の均等化と中庸としての正義
アリストテレスは、需要と貨幣が如何に多様な財を比較可能にし交換関係を維持するかを、家と寝台の比率を例に挙げて証明し、さらに正義と不正を中庸および両極端の概念を用いて定義・総括している。
- §5.6-5.7
政治的正義の定義と自然的正義および法的正義
不正な行為をすることと不正な品性を持つことの区別を前提として、自由で対等な市民の間に成り立つ「政治的正義」の概念を定義する。さらに政治的正義を「自然的なもの」と「法的なもの」の二つに区分し、その動的な性質と具体的差異を論じる。
- §5.8
正不正における自発性と事故・過失・不正行為の区分
アリストテレスは正義と不正における「自発性」の決定的役割を論じ、行為が自発的(あるいは選択的)であるか否かによって、不幸な事故(ἀτύχημα)、過失(ἁμάρτημα)、そして人柄としての不正な行為(ἀδίκημα)がどのように区分されるかを提示する。
- §5.9#1
不義を被ることの非自発性と自己への不正
不義を被ることの自発性と非自発性について疑義を呈し、他者から自発的に害される場合や自己を害する場合の検討を通じて、不義を被ることは常に相手の自発的行為と当人の非自発的な意志(意志への反抗)を前提とすることを論じる。
- §5.9#2
不当な分配における不正の主体と品性状態
不当な分配において分配する者と多くを得る者のどちらが不義を行うのかを論じ、行為の始まりが分配者にあるため分配者が不義を行うと結論づける。さらに、不義を行うことは単に特定の外的な行為をすることではなく、特定の内的状態(品性)から行うことであり、それゆえに不義を働くのは容易ではないと説明する。
- §5.10
公平性の本質と法律の欠落を正す正義
本節では、公平性(エピエイケイア)の本質と、正義との関係について議論する。公平性とは、普遍的な規定である法律が個別の事例において生じさせる欠落を正す、より高次の正義であることを明らかにする。
- §5.11
自身への不義の不可能性と魂における比喩的正義
自分自身に対して不義を働くこと(自殺など)が可能であるかという問題に対し、その行為は実際には国家に対する不義であり、また定義上自発的に不義を被ることは不可能であることなどを根拠にこれを否定し、最後に魂の理性的な部分と非理性的な部分の間でのみ比喩的な正義が成り立ちうることを示して正義論を総括する。
- §6.1-6.2
魂の理性的部分の区分と実践的真理および選択
アリストテレスは中庸を規定する「正しい理」の限界を明らかにするため、魂の理性的部分を学問認識的部分と計算思考的部分の二つに区分する。そして、人間の実践において行為と真理を決定する「選択」の定義を与え、それが理性と欲求の合致によって成り立つ実践的真理に関わるものであることを明らかにする。
- §6.3-6.4
真理を捉える五つの状態と学問的認識および技術
魂が真理を捉える5つの状態(技術、学問認識、思慮、知恵、知性)を導入し、まず「学問認識(エピステーメー)」が必然的かつ永遠なものを対象とする証明的な状態であることを定義する。続いて「技術(テクネー)」について、他のようでありうる事柄の生成に関わる、真なる理を伴う制作的な状態であることを規定する。
- §6.5-6.6
実践的な真理としての思慮の定義と始点を把握する知性
思慮(プロネーシス)が人間にとっての善悪についての真なる実践的状態であることを規定し、それが魂の「意見を抱く部分」の卓越性(徳)であることを示すとともに、学問認識の始点を把握するのは知性(ヌース)であることを論じる。
- §6.7
知恵の本質と思慮との区別
本章では「知恵」(ソフィア)と「思慮」(プロネーシス)の違いを明らかにする。知恵が最も尊い事柄についての知性と学問認識の結合であるのに対し、思慮は人間的な善や具体的な個別事柄に関わる実践的な能力であることが論じられる。
- §6.8
思慮と国家学の諸形態および個別者の把握
アリストテレスは国家学と思慮の関係を整理し、思慮が具体的な個別者に関わる性質を持つことを説明する。さらに、思慮が経験を必要とするため若者には備わりにくいことや、それが知性とは異なり一種の感覚であることを論じる。
- §6.9
良き熟慮の本質と思慮におけるその定義
アリストテレスは「良き熟慮(エウブーリア)」の定義を試み、学問認識、当て推量、機転、思い込みなどとの差異を示す。その上で、それは思慮が把握する正しい目的に向かって、正しい手段・方法・時期を理性的に選択する「熟慮の正しさ」であると結論づける。
- §6.10-6.11
理解と判別の本質および実践的諸能力の連関
アリストテレスは「理解」と「判別(思いやり)」について定義し、それらが「思慮」とは異なり判定のみを行うことを示した。また、判別、理解、思慮、知性がすべて個別的・極限的な事柄に関わり、同じ人々に備わる知的徳であることを論じる。
- §6.12
知恵と思慮の有用性および徳との関係
知恵と思慮が人間の幸福や行為の実践にどう役立つのかというアポリアを提示し、それらがそれ自体で望ましいものであること、および目的と手段の関係性から美徳がいかに作用するかを議論する。
- §6.13
自然的な徳と本来的な徳および思慮との結合
アリストテレスは「自然的な徳」と「本来的な徳」を区別し、本来的な徳は明智を伴わなければ成立せず、同様に明智も徳なしには成立しないことを示すことで、徳が互いに切り離されて存在するという説を退ける。さらに、明智は知恵の手段を整えるものであるため、知恵より優れたものとして知恵を支配するわけではないと論じる。
- §7.1
悪徳と自制心の欠如と獣性および自制をめぐる通説
避けるべき性格の特徴として悪徳、自制心の欠如、獣性の三つを挙げ、それぞれに対立する状態を導入した上で、自制およびその欠如等に関する一般的見解を整理する。
- §7.2
知識と自制心の欠如をめぐる難問とソクラテス説
正しい判断を持ちながら自制心を欠く行動が生じるのはいかにしてかという難問を提出し、知識と自制心の欠如の関係を巡るソクラテスの主張や、様々な通説から生じるパラドックス(明智、節制、思い、ソフィストの議論との関係など)を整理する。
- §7.3#1
無自制の対象と知識の所有および発動の区別
アリストテレスは無自制についての本格的な検討を開始し、まず無自制が関わる対象や態度、また「知っている」という事態の多義性(知識の所有と作動の区別)を整理する。普遍的前提と個別的前提の使い分け、および眠りや泥酔状態における知識の所有のあり方を指摘し、無自制が生じるメカニズムの分析へ進む。
- §7.3#2
実践三段論法と情念による無自制の生起
激しい情念が知識の不活性化をもたらすこと、および実践三段論法において個別的前提が作動しないことが無自制の引き金であることを説明し、ソクラテスの知徳合一説との整合性を示す。
- §7.4
端的な無自制と付加的な無自制の区別
無自制が「端的」に成立する身体的快楽への執着と、財貨や名誉、怒りなど「類似性によって」そう呼ばれる部分的な無自制を区別する。また、自然本性的に望ましい善きものの超過追求は、悪徳や本来の無自制ではないことを指摘する。
- §7.5
野獣的な状態と病気による無自制
病気、障害、習慣、あるいは野獣的な本性に起因する、人間的尺度を外れた異常な状態について論じ、これらは人間的な徳や悪徳の範疇の外にあり、それらに関する自制・無自制は類似性による比喩にすぎないことを示す。
- §7.6
怒りの無自制と欲望の無自制の比較
怒りによる無自制は理性の声を一部聞くが、欲望による無自制は理性を全く聞かないため、後者の方がより醜く不正であることを、様々な比喩や家族の例、詩の引用を交えて論じる。また、理性を最初から欠いている野獣性の害は、理性を持ちながら損なわれている人間の悪徳よりも恐ろしくはあるが害は少ないことを指摘する。
- §7.7
無自制と軟弱の区分と性急さと脆弱さ
触覚と味覚の快楽・苦痛に関する様々な状態(無自制、自制、軟弱、忍耐)を整理し、放縦と無自制の根本的な相違を説明する。さらに無自制における「せっかちさ(性急さ)」と「脆弱さ」という二つの具体的なタイプの特徴と心理的要因について論じる。
- §7.8
放縦と無自制の差異と行為の原理の保持
アリストテレスは放縦と無自制の根本的な違いを病気の持続性に例えて説明し、悔い改める余地のある無自制は治療可能である点で放縦よりも優れていると論じる。また、行為における原理(目的)の重要性を数学の前提に例え、徳がこの原理を維持する役割を果たすことを示す。
- §7.9
理に留まることとしての自制と頑迷さの区別
自制と無自制の定義について、正しい理や選択に留まるか否かという本質的な観点から論じ、頑迷さと自制の違い、また自制と節制、無自制と放縦の類似性と相違性を明らかにする。
- §7.10-7.11
思慮と無自制の両立不可能性と快楽の考察
思慮深い人が無自制であり得ない理由、無自制な人と都市の比喩、および自制・無自制の治療可能性について論じた後、快楽と苦痛についての探究が政治哲学者の役割であることを説明し、快楽を否定する諸議論を整理する。
- §7.12
快楽否定論への反駁と活動としての快楽の定義
アリストテレスは、快楽に対する主要な反論に反駁し、快楽が活動であり目的そのものであること、そして本性に従う状態の妨げられない活動として定義されるべきであることを説明する。
- §7.13
妨げられない活動としての快楽と最高善
アリストテレスは、苦痛が避けるべき悪である以上、その対立物たる快楽は善でなければならないと論じ、最高善(幸福)が一種の「妨げられない活動としての快楽」であり得ることを示す。また、幸福には外的な幸運や身体的な善が補助的に必要であること、そして万物が本性の中に神的なものを宿しているがゆえに快楽を追い求めるのだということを説明する。
- §7.14
肉体的快楽の誘惑と神の不変の快楽
肉体的な快楽がなぜより好まれるのか、その理由(苦痛の治療、強烈さ、変化を求める本性)を分析し、神の不変の快楽と人間の変化を求める本性を対比させて、本巻の自制・快楽に関する議論を締めくくる。
- §8.1-8.2
友情の不可欠性と愛される三つの対象の定義
本チャンクにおいて、アリストテレスは友情(フィリア)が人生や国家において不可欠である理由を述べ、自然学的な議論を排して倫理学的観点から探究を始める。さらに、愛されるべきものの三つの要素(善、快、有用)を提示し、友情が成立するためには相互に認知された善意が必要であることを定義する。
- §8.3
友情の三つの種と徳に基づく完全な友情
友情には有用さ、快楽、徳(善)に基づく三つの種があり、前二者は付帯的で容易に解消されるが、善い人々の間の徳に基づく友情は永続的で完全であることを示す。また、この完全な友情の成立には時間と親密な交際が不可欠であると論じる。
- §8.4
完全な友情とその模像としての快や有用さの友情
本チャンクでは、完全な友情が時間や性質の面で「完全」であるのに対し、快や有用さに基づく友情はその「模像」にすぎないことが説明される。また、劣った人々は快・有用さにおいてのみ友人となるが、善い人々だけが互い自身のために友人となり、その友情のみが中傷に揺るがないことが示される。
- §8.5
活動としての友情と状態としての友情および共同生活
アリストテレスは、友情を活動の状態(実際にともに暮らすこと)と、潜在的な心の状態とに区別し、真の友情においては生活を共にすることが本質的であることを論じる。さらに、愛すること(感情)と友情(状態)を対比し、善い人の友情において互いへの等しい望みと快さが完全に往還することを示す。
- §8.6
完全な友情の相手の限定と気難しさや権力者の友情
気難しい人や老人、権力者における友情の特徴を論じ、完全な友情が少数の間にしか成り立たない理由を明らかにする。また、有益さや快さによる友情を、完全な友情との類似・非類似という観点から分析する。
- §8.7
優越に基づく不等の友情と比例による等しさ
本チャンクでは、支配と被支配、親子、夫婦などの「優越に基づく」不等な友情が論じられ、そこでは愛する度合いが価値に比例することで関係の対等性が維持されること、また友情においては量的な等しさが価値的な等しさに優先するため、徳や身分の隔たりが大きすぎると友情が成立しなくなることが示される。
- §8.8
愛されることより愛することにある友情の本質
名誉を求める大衆の心理を分析しつつ、母親の愛を例に友情の本質が「愛されること」ではなく「愛すること」にあると論じる。さらに、徳に基づく友情の永続性と、対立するもの同士が中庸を求めて結ぶ有用性の友情の性格を説明する。
- §8.9
共同体における正義と友情の関係および国家の包括性
友情と正義は同じ対象と人々の間に関わるものであり、共同体の緊密度に応じて友情の強度も変化することを論じる。また、あらゆる特定の共同体は包括的な政治共同体(国家)の部分であり、国家は生涯全体にわたる共通の便益を追求するものであると説明する。
- §8.10
三つの国制とその逸脱形態および家庭内の対応関係
アリストテレスは王制、貴族制、財産評価制という三つの正しい国制と、その逸脱形態である僭主制、寡頭制、民主制を分類し、これらが家庭内の人間関係(父子、夫婦、兄弟、主人と奴隷)に見られる支配構造と対応していることを示す。
- §8.11
各政体と家庭における正義と友情および逸脱形態
それぞれの正当な国制(王制、貴族制、財産評価制)における正義と友情の関係が家庭内の人間関係と対比して論じられ、さらに偏向形態、特に僭主制における友情と正義の不在、奴隷や無生物との関係性が探究される。
- §8.12
親族と夫婦における友情と正義のあり方
親族の友情が親子の結びつきを起点とすること、そして夫婦の友情が人間の共同的・相補的本性に根ざしていることを説明し、それぞれの関係における友情と正義のあり方を論じる。
- §8.13
有用さによる友愛における不満と返礼の尺度
友情における平等と不平等の原理を説明した後、不満や苦情が主に有益さに基づく友情から生じることを示し、それが「法的」なものと「道徳的」なものに分類されること、および返済の尺度をめぐる議論について論じている。
- §8.14
不平等な友情における不満と比例的返礼および親子の負債
不平等な友情における対立と、価値に応じた比例的配分(名誉と利益)による解決が提示され、さらに親子間における恩恵と債務の非対称性が論じられる。
- §9.1
異種の友情における比例的等価と受益者による価値決定
アリストテレスは、異種の友情における不和を解消するためには比例的な等価交換が必要であり、事前合意がない取引では恩恵の受け手(受益者)がその価値を決定することが基本であると説く。
- §9.2
多様な人間関係における義務の衝突とふさわしい配分
アリストテレスは、親、友人、恩人、年長者といった異なる関係性において、それぞれ誰にどのような義務や返礼を果たすべきかという衝突(アポリアー)を検討し、一律の規則ではなく、各々の関係性の特質や状況の価値(高貴さ、必要性など)に応じてふさわしい配分を行うべきであることを論じる。
- §9.3
友の変化や徳の隔たりによる友情の解消の是非
相手の性格や状態が変化した場合における友情の解消の是非を議論し、有用さや快楽に基づく友情の解消の合理性、相手が劣悪化した場合の対処、および徳の大きな隔たりによる幼少期の友情の維持の困難さを考察する。
- §9.4
自己自身に対する関係としての友愛と善人の調和
他者に対する友愛の特性が、徳ある人の調和した自己関係に由来することを論じ、それとは対照的に、劣った人々は内部分裂と後悔のために自己自身とも友好的な関係を築けないことを示す。
- §9.5-9.6
友愛の前提となる好意と政治的友愛としての協調
第5章では好意(エウノイア)が友愛の始まりであり「不活性な友愛」と呼ばれるものであることが論じられ、第6章では同じ共通目標に向けて共同で実践する「協調(オモノイア)」が政治的友愛であることが論じられる。
- §9.7
施恩者が受恩者よりも愛する理由
恩恵を施した者が受けた者よりも深く相手を愛する現象について、貸し手と借り手の比喩を退け、創作活動や本性的な自己存在の現実化、さらに獲得に伴う労苦という観点から、その真の原因を分析する。
- §9.8#1
非難される利己主義と真の自己愛の区別
自分を最も愛すべきか他者を愛すべきかという問いに対し、一般的な利己主義への非難と、自己愛に根ざす真の友愛の定義との矛盾を提示する。アリストテレスは、非難される「自己愛」が肉体的な快楽などの貪欲な追求を指すのに対し、真の「自己愛者」は自己の最も支配的な部分である理性に従って高尚な行為を実践する者であることを明らかにする。
- §9.8#2
理性を重んじる優れた人における真の自己愛
支配的な部分である理性を愛し従う優れた者こそが、高尚なものを獲得するという真の意味で「自分を愛する者」であり、その自己犠牲や利他行為も自身に最高善を割り当てる高次の愛己主義にほかならないと論じる。
- §9.9#1
幸福な人に友人が必要とされる理由
幸福な人に友人が必要か否かという問いをめぐり、幸福の本質が実践活動(エネルゲイア)にあること、そして友人の優れた行為を観察することが自らの活動をより持続的で快いものにすることを示し、真の幸福には友人が不可欠であることを論じる。
- §9.9#2
もう一人の自己としての友人と生の共同知覚
著者はより深い「自然学的」アプローチから生の定義と自覚の快さを論じ、幸福な人にとって自己の存在が本性上快く選択されるべきであるのと同様に、共同感覚と言論を通じて共有される「もう一人の自己」としての友人の存在もまた本質的に必要とされることを示す。
- §9.10
友人の数における適正な限度
アリストテレスは友人の数に適正な限度があるかを論じ、有用さや快楽に基づく友は少数で十分であり、徳に基づく優れた友も「共に生きる」ことが可能な限られた数であるべきだと主張する。
- §9.11-9.12
順境と逆境における友人と共同生活の意義
順境と逆境における友人の役割の違い、および友人の在り方として共に生きる(共同生活する)ことこそが友情の核であり、互いに気に入った活動を共有することで人格が高まり合うことを論じる。
- §10.1-10.2
快楽についての諸説とエウドクソスの見解
アリストテレスは快楽に関する議論を開始し、それが人間の道徳的教育や幸福に不可欠であることを示す。また、エウドクソスをはじめとする快楽を「善」とする説と、それに反対して快楽を「悪」とする説の対立を挙げ、それぞれの主張の論拠を検討する。
- §10.3
快楽批判への反論と快楽の種的相違
アリストテレスは快楽が「性質」ではないことや「無規定」であるという批判に反論し、また快楽を「運動」や「生成」とする不完全性説を退ける。さらに、恥ずべき快楽の存在から快楽一般が否定されるべきではないとし、快楽に種的な違いがあること、また快楽を伴わなくとも選択されるべき固有の善や活動が存在することを示す。
- §10.4#1
快楽の完全性と運動や生成との相違
著者は、視覚や快楽がいかなる時間においても完全(全体)であるのに対し、運動は目的を達成するまで不完全であり、時間や部分によってその形相が異なることを、建築や移動(歩行)を例に挙げて論じる。これにより、快楽が運動や生成ではないことを示す。
- §10.4#2
快楽による活動の完成と生との不可分性
快楽が感覚や思索などの活動を「付随する目的」として完成させる仕組みと、活動が連続しないため快楽も持続しない理由を論じ、生と快楽の切り離せない結びつきを示す。
- §10.5#1
活動の相違に応じた快楽の種的相違
アリストテレスは、活動がその種類において異なるため、各活動に固有の快楽もまた種において異なると論じ、その根拠として固有の快楽が活動を促進すること、および外来の快楽や苦痛が活動を妨げ破壊することを挙げる。
- §10.5#2
快楽の純粋さと善き人にとっての真の快楽
快楽は欲求以上に活動に固有であり、活動の純粋さや種によって快楽も変化する。人間にとって真の快楽とは、優れた人(善い人)にそのように現れる快楽、あるいは幸福な人の活動を完成させるものである。
- §10.6
徳に即した自足的な活動としての幸福と遊びの否定
幸福に関する本格的な議論を開始し、幸福が状態ではなく、それ自体として望まれる活動であることを再確認する。さらに、幸福とは遊びや休息のようなものではなく、それ自体として望まれる、徳に即した真剣な活動であることを明らかにする。
- §10.7
完全な幸福としての観照的活動と知性の神的性格
アリストテレスは完全な幸福を人間の最高部分である知性(ヌース)の活動、すなわち観照(テオーリア)であると定義し、その自足性、純粋な快楽、余暇、そして神的な超越性を説明する。
- §10.8#1
倫理的徳の人間的幸福と神々の観照的活動
倫理的な徳に即した幸福は人間的であり、身体や感情から成る合成物に関わるため外的な善をより多く必要とする。これに対して神々の活動は観照であり、完全な幸福もまた観照的なものであることが論じられる。
- §10.8#2
観照と幸福の度合いおよび賢者への神々の愛
神々の活動が観照的であり、したがって人間の幸福も観照の度合いに比例することを示す。また、幸福な生活には適度な外的な善があれば十分であり、知性に従って生きる賢者こそが最も神に愛され幸福であることを論じる。
- §10.9#1
徳の実践と法律による強制および習慣づけの必要性
アリストテレスは、倫理的な探求の目的は徳を知ることではなく実践することであることを確認し、単なる議論では大衆を徳へと導くことはできないため、幼少期から成人後に至るまで国家の法律による強制と習慣づけが必要であると論じる。
- §10.9#2
法律の強制力と個人の教育における立法学の必要性
アリストテレスは、個人の徳の育成には個別の勧告や親の命令だけでは強制力が足りず、理知に基づく法律が必要であることを論じる。共通の教育体制がない場合は、個人が立法家としての普遍的な知識を学ぶことで、効果的に他者を徳へと導くことができると説く。
- §10.9#3
政治学における経験の重要性と国制研究の構想
アリストテレスは政治学と他の技術との違いを指摘し、実務的な経験こそが政治家や立法家になるために不可欠であると説く。ソフィストたちの安易な立法論を批判した上で、過去の議論や収集された国制の分析を通じて「人間に関する哲学」を完成させるための研究計画を提示し、論考を締めくくる。
