テルトゥリアヌス · Tertullian
迫害下の逃亡について
On Flight in Persecution
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底本
Tertullian. Quinti Septimii Florentis Tertulliani Quae Supersunt Omnia, Volume 1. Oehler, Franz, editor. Leipzig: Weigel, 1853.
原文データ出典
Perseus Digital Library · CC BY-SA 4.0
元ファイル: urn:cts:latinLit:stoa0275.stoa016.opp-lat1
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翻訳と校閲
翻訳:Gemini 3.5 Flash(2026-05-22 公開)
AI校閲 2026-09-22:検出 Gemini 3.8 Flash/判定 Gemini 3.8 Flash・GPT-6 Astra — 日本語訳 4 件・原文 12 件を修正
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最終更新:2026-10-10・変更履歴の一覧
要旨
本作は、キリスト教徒が迫害に直面した際、逃亡や金銭による妥協が許されるかという問題を扱った神学的・倫理的著作です。著者テルトゥリアヌスは、兄弟ファビウスの問いに答える形で議論を展開します。まず、迫害は悪魔ではなく神の主権のもとで信徒を鍛える試練として生じるため、本質的に善であり逃れるべきではないと主張します。聖書に登場する「逃亡の命令」は使徒たちの一時的な状況に限定されたものであり、普遍的な教えではないと解釈します。さらに、指導者の逃亡や、金銭を用いて迫害から逃れる行為をも厳しく批判し、それらを神の救済に対する不信仰であると退けます。最終的に、信徒は「パラクレトス(聖霊)」の導きを信頼し、死を恐れずに殉教と信仰の告白をもって苦難を耐え抜くべきであると結論づけます。
目次
11 チャンク
引用方式:chapter
- §1
迫害の神的な起源と試練としての意義
筆者は兄弟ファビウスの問いに答える形で、迫害は悪魔ではなく神に由来するものであり、信者を試し、教会を清めるための有益な試練(闘技)であると論じる。
- §2
悪魔を信仰の試練の道具とする神の権能
迫害が悪魔から生じるように見えるとしても、それは神が信仰を試すための手段として悪魔の不義を用いているにすぎず、あらゆる試練や権能は神の許可のもとにあることを、ヨブやペトロの例、さらに聖書の記述を引いて論じる。
- §3-4
神の意志による迫害と逃亡の不当性
第3章では、迫害が最終的に神の許可や命令によって生じるものであることを聖書に依拠して示し、迫害を恐れて不規則な集会を行う信徒を批判する。第4章では、神から来る迫害は本質的に善であり、かつ不可避であるため、逃亡することは神の主権を否定し悪を神に帰する行為であると主張する。
- §5
逃亡の無効性と殉教者ルティリウスの先例
逃亡を正当化する論理(否定を避けるために逃げ、連れ戻されるかは神に委ねる)に対し、著者はそれがすでに不信仰の想定に基づいていると反駁する。何度も逃亡しながらも結局は殉教したルティリウスの例を引き、神の意志なくして逃げることに意味はないと論じる。
- §6
使徒たちへの逃亡命令の一時性と限定性
テルトゥリアヌスは、聖書に記されたキリストの「逃亡の命令」が、当時の使徒たちの独自の状況と宣教の進展という一時的な目的のためにのみ与えられたものであり、万民に宣教が開かれた現在の信徒には適用されないことを議論する。
- §7-8
受難への召命と肉の弱さを超える霊の強さ
第7章から第8章にかけて、著者はキリストの様々な教えや黙示録の記述を引用し、逃亡の命令が普遍的な義務ではなく一時的なものであったことを論じる。さらに、キリストがゲツセマネの園で見せた弱さと強さの模範を引き合いに出し、信徒が肉の弱さを言い訳にせず霊の強さに従って受難に立ち向かうべきだと主張する。
- §9
使徒書簡と聖霊による信仰告白と殉教の命令
使徒たちの教えやパウロ、ヨハネの言葉、さらには聖霊の預言を引用し、これらが逃亡ではなく、信仰の告白、抵抗、そして殉教を命じていることを論じる。
- §10-11
逃走を勧める格言の論駁と聖職者の逃亡批判
§10では世俗の「逃げる者は再び戦う」という格言を皮肉をもって退け、迫害の中での死を恐れずに主に身を委ねるべきことを説く。§11では聖職者らの逃亡を厳しく批判し、旧約聖書の羊飼いの例えを用いて指導者こそ教会の防衛のために踏みとどまるべきだと主張する。
- §12#1
金銭による迫害からの贖いの否定
迫害から金銭で逃れる(贖う)行為は逃亡と同じ臆病さの表れであり、キリストが自らの血をもって贖われた信徒を金銭で買い戻すことは、主の救済を軽んじて信仰を否認するに等しいと論じる。
- §12#2
賄賂による迫害回避の批判とカイザルの物への反論
著者は、キリスト者が迫害を逃れるために金銭で賄賂を支払う行為を非難し、使徒たちの模範や神の御心を引いて反論する。さらに、「カイザルのものはカイザルに」という聖句を誤用して金銭による妥協を正当化しようとする主張を、キリスト者自身が神の肖像であり、神に血を捧げる義務があることを示して論破する。
- §13-14
聖句誤用の是正と聖霊に頼る苦難の忍耐
迫害時の金銭による妥協や逃亡を勧める議論を退け、「求める者に与えよ」等の聖句の誤用を正しつつ、信徒は信仰と知恵、そしてパラクレトス(聖霊)の導きに信頼して苦難に耐え抜くべきであることを説く。
